くるり「ばらの花」再考―現代におけるナースリー・ライムとして

由縁もありまして、昨年の京都音楽博覧会の当日、そして、その後のライヴ・ツアー会場で売られ、今では通販でも手に取ることが出来るようになりましたくるり公式旅冊子『HOW TO GO』(http://www.quruli.net/goods/detail.php?cd_shop=136)に、短いテクスト、全体の中に違和感のあるようにふと鎮座するものが見つけられるかもしれません。

これは、元来は「ばらの花」を再考するという軸の下に書き下ろしたものですが、色んな関係もあり、コラム的な感じに帰着致しました。ただ、原文(まま、ではありません。)はここで記しますように、こういったものでした。旅冊子本体は写真から何から充実しておりますゆえに、興味がある方は是非。

ここでは、そのオルタナティヴ・テイクを。

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くるりの「ばらの花」というシングルがリリースされたのは2001年1月24日、考えてみると、もう12年以上も前のこと。ちなみに、帯には「若者的青春音楽」と記されており、淡い水色をベースにしたブックレットには、ばらの花がフィーチャーされながらも、背表紙には岸田繁佐藤征史森信行が白のワイシャツで机に手を置いている切なさも感じる構図がカット・インされている。Special thanksには中村弘二SUPERCAR)、田中宗一郎 & all of our friends & YOU!と記されており、今、その大文字の「YOU」がしみじみと響く。チャート・アクションは20位。それまでのくるりのシングルではアクションが良かったものの、今のようにずっと歌い続けられる、そして、長く長く、多くの人に愛される曲としての展開ではなかった。

2011年5月6日の岸田繁の日記(http://www.quruli.net/diary/index.php?s_day=20110506&s_member=1)では、ゴールデンウィークのことに触れながら、東北地方は僕のお気に入りだ、と記し、こういう旨を吐露している。

“「ばらの花」のビデオを撮影した塩屋崎灯台の近く、薄磯海岸で食べた浜焼きの味が忘れられない。秋田で食べたはたはたのなれ鮨は、この世にこんな美味いものがあるのかと驚きながら食べた。沢山の温泉にも行った。青森は、名前の通り森が青かった。第二の故郷だと思っている。奥入瀬渓谷をたくさん歩いた。仙台から仙石線石巻までゆっくり旅をするのも好きだった。岩手では三陸鉄道に乗るのが小学生からの夢だったけど、まだ実現していない。山形は、最上というところのフェスに呼んでもらったので、今度行けるのが楽しみだ。”

「ばらの花」のPVが撮られたのは福島県いわき市の薄磯海岸であり、淡いブルーの砂浜で防寒着を纏った三人が劇的さもなく、静かに描かれる。当時のくるりといえば、「ワンダーフォーゲル」から急転回して、アンダーワールドなどのロックとテクノの折衷に傾倒していたのもあり、サウンド・シークエンスもギターのリフが印象深くも、打ち込みが基調になっている。そして、「東京」からの流れがやわらかく変わることを示してもいた。その地下水脈を支える曲がこの「ばらの花」であり、PVでの何かの終わりと、青春が帯びるときに残酷な煌めきをパッケージングした風景には相応しかったと思う。

2011年3月11日の震災以降、福島県いわき市は何かとニュース含めて取り上げられることが多くなった。それはもちろん、決して良いことばかりではなく、何らかのメディアのフィルターが掛かってのものもあり、その中で、日本の渚百選に選ばれている薄磯海水浴場もふと映された。瓦礫や現地の人たちの声とともに。

原子力発電所の問題を巡っては、国内で、現在進行形で多くの討議とともに、アクションが起こされている。人類の叡智としてのエネルギーを生み出すシステムと生物たるヒトが対峙せざるを得ない現実。そんな現実は、考えを尽くしても永遠に解決しない夏休みの宿題のように胸を締め付ける。高度な文明の恩恵を得てきた僕自身が、自然回帰を唱えるにはこれまでの人生や多くの人たちの想いで背中を押されてきただけに、贖罪の念にも駆られる。ましてや、アーティストという多くの方に表現を届ける責務にある人たちの辛苦は相当なものがあると察する。くるりもその使命感を持ち、悩み、動いていた。

加え、触れておかないといけない、同年にはレイ・ハラカミ氏の急逝があり、京都が誇る偉大な音楽家へ悼みを捧げるようにフジロックでの「ばらの花」は最小限のアレンジで切なく、いない、君に向けて紡がれたのも記憶に新しい。くるりがこれまで何百回以上、ばらの花を捧げてきたとしても、そのばらの花の意味は都度、全く違う、それがこの曲の不思議なところでもある。

なお、“ばら”という花は筆述されているかぎり、古代バビロニアの時代から人間とともに咲いてきた。世界でも愛され、その香り、棘、色などメタファーとして多くのことで用いられる。

くるりの「ばらの花」では、「愛のばら掲げて遠回りしてまた転んで」というフレーズで直接、出てくるだけで、5分ほどの中で筆致される世界観はJ.D.サリンジャー的な短篇小説のような味わいがある。心の琴線に触れる「安心な僕らは旅に出ようぜ 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」の部分をして、岸田繁は当時、本当は思い切り泣いたり笑ったりしたくないような旨を告げていた。

それは分かる気がする。安心な僕らが旅に出る理由。そこで飲んだジンジャエールの味がこんな感じだったか、と思いながら、最終バスを乗り過ごして、もう君に会えなくなること、そんな胸の痛みを何の花に例えられるかどうかの葛藤、そこには会うは別れの始め、ということわざを想起せしめるからで、思い切り泣いたり笑ったりする人生は切ない。

現代におけるナースリー・ライム(伝承童謡)として、ばらの花は咲く。そして、「ばらの花」は歌い続けられ、歌われ続ける。安心じゃない今の僕らは簡単には旅に出られないから、そこに居ること、居続けることで何らかの痛みと悼みを負うが、昇華させるためのかすかな光は在ると信じる。暗がりを走り抜ける軌跡のあとに。

ばらの花

ばらの花