くるり「Remember Me」によせて

くるりは、基本、ずっと会者定離を歌ってきた。それはバンドの形態としても、歌そのものとしても。ベースの詞・曲を担う岸田繁はいつも間に合わない未来について留保しようとするために、ときに、追いつかない感情にせめてもの行間を創るために、音楽の形式論を変えては、そのときのくるりとして届けようとしていた気がする。

以前に、彼は取材で「結婚式でうたう歌が困る。」、または、ファンの方が「ワンダーフォーゲル」(http://www.youtube.com/watch?v=I_PndY44ROg)という別離の歌、その曲の際にプロポーズをした、などの逸話があるが、敢えて記さないといけないことに、2011年3月11日以降の彼は、“岸田繁そのものアイデンティティ”を取り戻すために、くるりという組織体の再構築のために、長いトライアルに入ったように思える。

そこでは、長く付き添う佐藤征史の存在、新しいメンバーたるファンファン、吉田省念(現在は脱退はしたが、彼の進行形の活発な行動も素晴らしい)、そして、ひとつの時代をサヴァイヴしてきた中村一義氏(http://cookiescene.jp/2013/07/kikagaku.php)や後藤正文氏(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、10-FEET、これからを担ってゆく新しいバンドたるOKAMOTO’SやThe Saloversなどと交流を交わし合い、被災地へのライヴも積極的に行ない、昨年には10枚目のオリジナル・アルバム『坩堝の電圧』(http://cookiescene.jp/2012/08/victor-2.php)をリリースした。

坩堝の電圧』を巡っては、既存のくるりファン以外を巻き込み、日本で何かと傷ついた多くの人のもとに、せめてもの音楽を通しての祈り、願いのようなものを手紙に添えるように伝えた。

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その流れの中で、TV番組用に書き下ろされた曲が「Remember Me」であり、このたび、メジャーデビュー15周年の記念シングルとして改めて、『ワルツを踊れ』での想い出の地、ウィーンに渡航し、新たなヴァージョンでリリースされる。元来、配信限定だったのもあり、そういったものに弱い年配の方や改めてこの曲を届けたいという配慮もあるだろうし、新曲の「Time」含め、パッケージ、音質に拘る岸田繁の強い想いもそこには込められているのだろう。「Remember Me」は、くるりが世代や多様な価値観を越えて、優しさと慕情、日常のほんのわずかな前向きな背中を押す雄大な曲であり、かつての「ジュビリー」のさよならのためのダイナミクスと比すると、ごわごわだったシャツが着てゆくたびに馴染んでゆくような、そんなあたたかい曲になっている。最近、共演が多い奥田民生が持つメロディーの伸びやかさ、ビートルズ、オアシスの曲がときに持っていた大きな包容力とともに。

想うに、或る人たちにとっては、くるりの曲とは、いつも、ふとした日常の傍にあったような存在なのかもしれない。

「ばらの花」は01年にリリースされた打ち込みと淡々としたメロディー、青いリリシズムが漂う曲だが、今でもステージでは歌われ続け、人気も高い。セカンド・アルバム『図鑑』に収められていた「宿はなし」はソウル・フラワー・ユニオン系譜の民謡調の歌だが、新旧曲と何ら齟齬なく、繋がる。京都の鴨川をベースにした「リバー」はトラッドなカントリーながら、とてもポップな煌びやかさ、それは鴨川に陽光が撥ねるような質感を保ち続けている。

今年のくるりは、変わらずライヴ活動、フェスへの参加など積極的に行ないながら、新曲という意味では、今夏の爽涼な曲「ロックンロール・ハネムーン」に限られた。「ロックンロール・ハネムーン」は岸田の偶然、手の怪我から生まれた実験性と遊び、そして、多くの楽器が鳴っている興味深い曲だった。ファンファンのトランペット、マーチのようなドラム、佐藤のコーラス・ワーク、チンドン的に賑やかになる途中、メロトロン、電子音のサイケな鳴り、そして、彼らの曲では眩さが滲む歌詞。

《窓の外には 思い通りになる世界と 青い芝生が僕らを手まねきしているようだ 窓の外には 白無垢 綿ぼうしの夢 まだそこなんだ 歩いておいでよ 綱渡りのよう》
「ロックンロール・ハネムーン」

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今のくるりはどうにも、既存性と手を振らざることが多い難渋な現実に、せめてもの窓の外の空、眩さに目を凝らしているように思える。先ごろの京都音楽博覧会でもしみじみ染み入る選曲内で、この新曲群もしっかり映えていた。

ちなみに、彼らには「窓」という曲もあるが、それは何らかの閉塞性も孕んだポスト・ロック的な曲だったが、窓には複数の意味は含まれるのだろう。窓によって防がれる雑音もあれば、開くことによって聴こえる音。

そういう意味では、この「Remember Me」は、開かれた窓越しに聞こえる豆腐屋さんのラッパのような想いがよぎる。ブラジルでは“サウダージ”と呼ばれる観念があるが、それは日本人では言語化、シェアできないものだとしたならば、ここでの慕情とだけは記せない想いは日本という国で生きて、噛み締められる“何か”かもしれない。ファドやボサノヴァを聴いて、母郷に思いを馳せる異国の人と近接して、また、在りし日の日本を回顧するように。

豆腐屋のおじさんと味噌汁の匂いに招かれるべく、パパ、ママ、子供、朝、新聞、涙、笑顔、そんな大きな言葉が並ぶ。そして、最後はこう締めくくられる。

《遠く離れた場所であっても ほら 近くにいるような景色 どうか元気でいてくれよ》
(「Remember Me」)

元気で、と願うくるりはこれからまた移ろいゆく季節に向けて、15年目に折り目を入れる。暗いニュースは行き交い、音楽の意味は再定義される瀬だが、ここから続きを描けばいいのだと思う。

筆者のもう老齢になった母親がこの「Remember Me」を聴いて、いい曲ね、といった表情を全国の誰かが感じるように、その母親はまた自身の写し鏡みたく忘れないように、想い出して、前へ行けたら、何かとこじれた糸もきっとほぐれることと心から希う。