くるり「ロックンロール・ハネムーン」


《窓辺にうつった ひろがる田園のような
光に満ちあふれた 未来が手招きしてるから》

(「ロックンロール・ハネムーン」)

くるり流の清冽にしてやはり、変化球を込めたシティーポップスというのだろうか、それにしてはファンファンのトランペットの響きが招きよせる解放感、エレクトロニクスの流星のような輝きと淡やかでローファイな絡み、ドラムのマーチ的に軽やかに叩かれるドラム、途程の不思議な展開といい、優しく柔らかい曲になっている。

一気に次のモードに入った、というよりはゆるやかな“過渡期”としてのくるりがふとその折に見せる自然な横顔、そんな印象を受ける。ナイアガラ的な潮風をまとい、佐藤征史の軽快なコーラスまで、性急ではなく、少しずつ視界をあたため直してゆくようなテンポが嬉しい。また、昨年の京都音楽博覧会でのパフォーマンスも素晴らしかったジェームス・イハが閃くような美しく繊細なメロディーや空気感も間接的に視える。

まずは、この曲に至るまでを簡単に振り返っておこうと思う。

2013年5月21日に、「くるりより皆様へ」という項目が公式HPにアップされたおり、過多のアクセスで、サーバーが落ちた、ということで、岸田繁は自身のTwitter上で“くるり吉田省念脱退しました。これからは彼は自身の音楽活動に集中するでしょう。くるりで二年間頑張ったけど、なんかやりきったみたい。びっくりしたけど、まぁ仕方ない。因みにもう次向かってます。”とステイトメントを出した。さらに、彼は、ファンの一ツイート“くるりはかたちを変えながらここまできたけど、いつだってくるりだったし、いつだって岸田さんと佐藤さんはくるりだった。辞めてったひともくるりだったし、サポートのひともくるりだった。”に反応、返信をし、そういうことだ、と述べた。

振り返れば、2011年6月29日に吉田省念、ファンファンが加入しての二年弱、シングル「everybody feels the same」、アルバム『坩堝の電圧』、そして、配信限定の「Remember Me」までをリリースし、ライヴ活動、メディアでの振舞い、など多彩にして、密度の濃い期間を駆け抜けた。

なお、くるりに関しては、05年の当時の正式ドラマーだったクリストファー・マグワイア脱退後のインタビューにて、岸田は「佐藤(征史)がやめたら、バンドは終わる。あるいは自身が死んだら。」との言に、「くるりのそれがただ一つの決まりごと」と添えていた。現体制での年明けの武道館公演は『坩堝の電圧』のみならず、くるりが抱えてきた傷痕と逡巡を隠さずにこれまで歩んできたかのような選曲とパフォーマンスに新旧ファンから喝采が寄せられたのも記憶に新しい。

また、補足しておくに、みやこ音楽祭という学生主体ながら、京都のローカリズムに根差したイヴェントに変わる形のWHOLE LOVE KYOTOというイヴェントを4月に主催し、遂行した。筆者も訪れたが、KBSホールという立地条件の良さとカジュアルさを含めた場所に、フラッと遊びに行って、ライヴを楽しめる、そんな今の時代では貴重にして、贅沢な時間があった。勿論、これから改善余地があるだろうところはあったが、こういう“いい加減”ながら、成り立つものが明らかに減っている瀬に、意味は大きかったと思う。くるりに期待しつつ、名前は知っていながらも、ライヴは初めてだったかもしれないTurntable Filmsの軽快なステージングに魅せられた人もいただろうし、ceroのドープでサイケデリックに、喪われたシティーポップスの中心に潜るようなライヴに圧巻をおぼえた人もいただろう。そして、泉まくら、NOKIES!といった気鋭に期待値を上げた人もいると思う。吉田省念が居た、くるりのライヴとしては最後になったそのステージはいわゆる総花的な選曲だったが、個人的に、胸に迫ったのは「Morning Paper」だった。『アンテナ』期の曲で、緩急の妙と少ない歌詞が行間に染みるもので、何度もこれまで聴いたが、今の体制で聴く「Morning Paper」のラフで不安定なグルーヴに感じる何かがあった。くるりは、いつも不安定で、求心的(急進的)に、ただ、音楽を媒介にして沢山のコミュニケーションの手段を投げかけてきたバンドだと思う。

だからこそ、くるりという名前の下に、多くの人たちが行き交い、“組織体”として、というよりも、信頼が寄せられてきたのは、要はどんな時代においても、背筋を正した音楽に宿る強度を信じてきたからだとも思う。

《モーニング・ペーパー
世界の果て 届いてる?
解散しない
世界中の夢背負う群れ》
(「Morning Paper」)

岸田繁佐藤征史、ファンファンの三人になっての初の発表曲がこの「ロックンロール・ハネムーン」になる。くるりの代表曲のひとつといえる「ロックンロール」に“ハネムーン”という華やかさを含んだ語が接続されるが、または、或る人はベイシティーローラーズの同タイトルを想い出す人もいるかもしれない、別種の新しい予感を込めた始まりを告げる曲になっている。

彼らの特有の、たとえば、過去の「Birthday」や「さよならリグレット」などの人肌のぬくもりも包含させながら、優しさを増した岸田の声と歌詞、アレンジメント全体のささやかな遊び心は歳を重ねたからこそ、もう一度、取り戻せない何か、と再発見できる何かの可能性の草叢に虫眼鏡を合わせ、跳び込む夏休みのいとまのようで、過ぎゆく日々の切なさと感情の昂揚を結う。


《まだ そこなんだ 歩いておいでよ 綱渡りのよう》