序)京都音楽博覧会2015−クールの予兆

1)

早いもので、京都音楽博覧会2015 in 梅小路公園も今回の開催で9年目を迎えるという。もはや、日本の夏だけに問わず、一年中、各地域で欠かせなくなったあまたのフェスやイヴェントと比してみるに、やはりその都度の重みと彩味、独自のテーマがあらわれるというのは、魅力のひとつかもしれないと痛感する。

JR京都駅から歩いて15分ほどの市民の憩いの梅小路公園をベースに用いて行なう大規模な音楽イヴェント。周辺環境への配慮のため、音量は絞って行なうのは当初から変わらない。出店と、京都の町そのものがバックスクリーン、そして、リニューアルのため、今夏に一旦、閉鎖されるものの、蒸気機関車館や蒸気機関車の汽笛、走行音だった頃からすると、今は公園の中にも幼児玩具などが増え、華やかになり、2012年からは京都水族館ができ、より賑やかになった。その分だけ、ライヴのタイムテーブル、その前後も難渋な条件性をクリアランスしないといけないことが多々出てくる。京都水族館のショーの時間は音を出さないなど、当世はネットの発展や個々意見の即座の反応が見えてしまうのもあり、リスク・ヘッジが当然となっている。

そんななか、隣接する京都水族館との兼ね合いで、京都水族館京都音楽博覧会の打ち上げ兼特別配信を行なう。もちろん、9年目にして初めての試みだが、こういう緩やかな連携は微笑ましく、それは水族館サイド、音博サイド、お互いが共存共生のために合意、理解を示すべく道を切り拓いてきたからこそ、なし得たことなのかもしれないが、京都音楽博覧会の長く異端な路を振り返ると、またひとつ感慨深くなる。

2)

雨に降られた初年度のやや厳しい表情と、世界の音楽をショーケース的にではなく、エクスポとして楽しんでもらいたいという熱量と観客側の温度差がやや乖離していたように思えたときから、回を重ね、ロック・ポップスの枠を越え、日本でもなかなかフェスには出ない人たちが参加するようになり、世界の色んな国からも思わぬアーティスト、バンドが来て、また、くるり・ザ・セッションという名義で現くるりメンバー、過去のくるりメンバーとライヴを行なったもの、ひとりジャンボリーといった弾き語りで自分の曲やカバー曲を披露する、といった、その時だけの企画やカバーセッションなども現場における何よりの楽しみが伝播していったのだろう、「秋の京都音楽博覧会はまったり大人も子供も楽しめるし、いい。」、「夜7時に終わって、そこから食べたり、散歩もできるし、京都観光と絡めて行こう」、「ここでしかない柔らかい雰囲気が好きで、各地域、遠方から来ている」といった声が増えていった。くるりが地道にコツコツと築き上げてきた大切な博覧会は、みんなのものになっていき、京都でさえ急速に進むフラット化の波に頑なな京都“らしさ”でもてなす。だから、チケットを持っていなくても、タオル片手に外でボーっと聞いている風景も、親子が子供を遊具で遊ばせながら、「これ、お母さんが好きな曲よ」と子供に振り向かせている風景も心地良く排除されず、ひとつの秋の情景に溶ける。なにひとつ弾き合わないように。

京都の持つ伝統的な文化の深さ、根本のエネルギーに極度に振り回されないように、同時にそれらを内面から書き換え、リブートしている節さえ伺える稀有なスタンスを保つ博覧会が今年、魅せようとするひとつは「クール」と言えるかもしれない。いや、「クール」とは違うのじゃないか、という言葉もすぐに出るだろう。主催者たるくるりは、いつもこのイヴェントに向けて、ある程度のヒントを出す。それは、実際のラインアップの発表であったり、作品のリリースそのものであったり、特別編成のメンバーであったり。今回でいえば、ラインナップとともに、「ふたつの世界」というシングルがその謎解きのひとつになるだろうか。

忘れないで
生まれ変わる時が来ても
心がちょっと近づいても

交わらないふたつの世界
輪廻の輪の向こう
回る回る 記憶をつなぐ
また会う日まで
(「ふたつの世界」)

くるりの曲の中でいえば、「さよならリグレット」辺りのチェンバーポップに、近年の「ロックンロール・ハネムーン」みたくユーフォリックな煌めきを合わせた、ポップに転がる切ないかわいらしさを持つ曲。そして、往年のXTCから受け継いだメロディー・センス、同じく、マッドな領域にいるほどに冴えているブライアン・ウィルソンヴァン・ダイク・パークスの轍を継ぎ、大瀧詠一山下達郎的な行間を通じて、日本における変わりゆくインディー・シティ・ポップの地割れの点を穿つような要素が色濃く明射する―くるりたる由縁があちこちに溢れている。また、歌詞の間に漂うのは岸田繁が敬愛する奥田民生の香りを孕み、シンプルがゆえに、言葉そのものに聴き手が傷つけられることなく、想いを託せる優しい余白が用意されている。くるり史上初のアニメとのタイアップというのもあるのだろうが、「輪廻」という今までにないフレーズもうまくハマっている。当該シングルは、初回限定盤には、進行形で行なわれているくるりの過去のアルバムの再現ライヴ・プロジェクト『NOW AND THEN』の一部もボーナス・ディスクとして付く。ただ、意義深いのはヴァージョン違いたる「ふたつの世界」(Bebop Ver.)だろう。

ビ・バップ(Bebop)。主に、チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーからなった非常に高度な演奏技術に基づいた音楽で革新的だったが、大事なのは「調性」を揺らがそうとしていたところだ、とここでは置く。だからこそ、マイルス・デイビスがいわゆる9重奏団で挑んだ『Birth Of Cool』での音像は即興と編曲の調性を保ち、高尚な分かりやすさを持つのも道理で、ビ・バップから、クールへ、と断線、または反動の文脈を敷くのではなく、モダン・ジャズの歴史の変わり目の必然的な豊饒たる収穫のひとつなのだろうと思う。ビ・バップで踊れる人と、クールで聴き入った人、モダン・ジャズの豊かな潮流の下、交差する場所は対照的なようで、とても近い。

昨年の京都音博はレポートで、サロン性をベースに書いたが、今年の京都音楽博覧会は多面的な意味で、クールが要所で感じられるのではないか、と思っている。

3)

くるりは、元来のオリジナル・メンバーの岸田繁佐藤征史、とともに、母体へ配慮しつつ動いているファンファン、と個々が多面的な活動を行ないながら、「くるり」として集まったとき、サポート・メンバーとの時おりの関係性含め、日本のみならず、世界の街を渡り歩く楽団のようである。キャリアも長くなり、ささやかな機微で表情を変えてしまう曲をあまた持っているバンドだからこそ、アレンジメントを変えたり、サウンド・チェックでサラッと過去の佳曲をフルで歌ったり、その中で醸される空気感はますます、ワン・アンド・オンリーのものになっているが、いつか、ザ・フーを観たときも思ったが、キース・ムーンは居なくとも、メンバーは老いていても、ピート・タウンゼントのあのウィンドミルには胸打たれたり、全体のグルーヴは枯れていなかった。メンバー変遷、音楽性の変化を経て、円熟味も出てきながら、「それでもなお、くるりは、より、くるりである」という記号性ではなく、強度が増していると感じるのは岸田繁佐藤征史のオリジナル・メンバーが居るから、だけ(それはかなり大きいのも確かだが)の問題でもない気がしている。

岸田繁は旅というモティーフに、人生や音楽、文化の結い目を見出す、気付きを持つような旨を取材などで云う。実際に足を運んでの旅、五感を働かせての旅だけじゃなく、脳内で無限に広がる道をイマジネーションで追ってゆく旅…幾つもの旅の過程で、くるりはそのバンド名に反転適合してゆくように、芳醇に記名的で、生物たるヒトの温度や知性、グルーヴを、音楽を通じて、届けようとし、難しくならざる素材を多少、噛み砕いてアウトプットしているように見えながらも、そこに幾つもの先達の歴史へのオマージュ、フレーズを寄せ、気負わない言葉で爆ぜ合わせている力学原理が来る者拒まず、有機的に外へと拓かれているのがいいのだと思う。例えば、「ばらの花」、「ロックンロール」、「東京」…、多くの人に愛される曲の幾つかはもはや、街の中で仮想化された繊細ですこしブルーな自意識の束に向けた伝承歌として根付いている気がするのもそうで、生きている場は違えど、普遍的な迷い、揺らぎ、葛藤、割り切れなさ、それでも続く毎日に平等に感情が機能する訳はなく、「大きく、明朗で饒舌な歌」が誰もの心を救うばかりじゃない。

その、くるりの“クール”な感性がいつになく明瞭化されている9回目の京都音楽博覧会は、高野寛indigo la End、Cosmo Sheldrake、八代亜紀、Antonio Loureiro、ましまろ、そして、木村カエラの参加も正式に決まった。パッと目につくのは、indigo la End八代亜紀木村カエラだろうか。

indigo la End川谷絵音が率いるギターロック・バンド。ディーセントなメロディー・センスと艶やかな日本語詩で紡ぎあげる新しい時代のラブソングへの視程を持った逞しさがあり、フロントマンが別途、ゲスの極み乙女。というまたユニークなバンドを担っているというのも面白く、今現在のユース・ロック・カルチャーで欠かせない存在であるのはどちらとも間違いないといえる。

Indigo la End『雫に恋して』

八代亜紀。演歌のあの人でしょう、というイメージより、或る人は2012年の小西康陽プロデュースのスタンダード・ナンバーのジャズ・カバーアルバム『夜のアルバム』での再評価で知った、とか、いや、2013年のラウド・パークでの現れ方が、という方も居るだろう。元々、タモリが言うところの“ジャズな人”だったゆえに、パブリック・イメージより元来の奔放な八代亜紀に回帰しているような最近の流れでの京都音楽博覧会への初登場とは興味深い。過去でも、小田和正があの澄んだ声を京都タワーに引っ掛けるように響かせるだけで、会場の雰囲気は一変し、石川さゆりは「天城越え」でのぼりつめるように歌い上げるさまに京都の空に静謐に泪雨を誘っていたからして、八代亜紀の今回のステージも特別な何かになるだろうと思う。

八代亜紀『You’d Be So Nice To Come Home To』

木村カエラは2012年に出ており、そこでもくるりの「奇跡」を本当に美しい歌唱で披露し、自らの代表曲のひとつ「Butterfly」も鮮やかだった。また、モードも変わってきているだけに、どういったパフォーマンスをするのか、期待が募る。更に、高野寛といった大御所がサラッと入ってくるのがこの京都音博の醍醐味だろう。高野寛というアーティストが切り拓いてきた偉業を数え上げられないが、私的には純然とひねくれたマッドなポップ・マエストロとして2009年の『Rainbow Magic』前後の熱量の高さに魅かれてしまう。最後、日本勢のましまろ。真城めぐみ、真島正利からなるユニット。これは何も言うことはないだろう。きっと素晴らしいものを見せてくれると思う。

海外勢は、極端に言えば、メトロポリタンな二人で、Cosmo Sheldrake(コスモ・シェルドレイク)は若干25歳のロンドンをベースに多岐に活動しているが、サウンド・アート作家としての側面に強く感応できるものがある。今年のEP『Pelicans We』はパナマ運河やカナダの熱帯雨林などのフィールド・レコーディングを行ない、トイ・ポップ調にリリカルなものに昇華させた。Antonio Loureiro(アントニオ・ロウレイロ)は、ブラジルはサンパウロ出身。ミナスの気鋭。日本へも来日しながら、アート・リンゼイなどともライヴ共演するなど、多面的な可能性を持つマルチな才能を持つ。マルチアングルという意味では、昨年もアルゼンチンのトミ・レブレロから松尾芭蕉の侘び寂びが国境を越えて力強く聞こえてきたり、サム・リーの巧みな伝統楽器の使い方はまさに、そのとおりだった。マルチアングルで見通す海外勢の二人と、日本勢のクールネスが混じり合う場所が京都というのはとても分かりやすく、今年のラインナップは高い求心性を持つ気がする。

Cosmo Sheldrake『Tardigrade Song』

Antonio Loureiro『Lindeza』

4)

さて、数多のランキングをザッピングせずとも分かるとおり、日本への異国からの観光者数は増えている。
訪日客、年2000万人ペース 定番観光に満足せず :日本経済新聞
それは上記記事のように、また、規制緩和のみならず、LCCや簡易なパック、ネットを介したコスト・パフォーマンスのいいモデルなどが市井を刺激し、同時に、「国境を越える」ことは然程、難渋なことではないという意識を持った人が出てきた証左なのかもしれない。いつかのグローバリゼーションでは、どんな国のどんな場所でも、英語、クイーンズでもアメリカンでも一通り話せておくべきだという風潮があったものの、タブレット端末で明確に移置を指し示しながら、スロベキア語で大阪は天王寺あたりに行きたいという旅人の話を聞いた時、ようやく、狷介固陋な“べき論”もグローバリゼーションという大文字も細分化、分割化されてゆくような気がした身としては、京都がどこまで世界の中でエッジ化した観光都市なのかというと、首肯できにくい部分は正直、ある。観光施策は素晴らしいと思う。ホスピタリティーも日進月歩で上がり、多面的に間口が広くなるものの、携えてきた伝承性と新しい文法を噛み合わす際の成長痛といおうか、軋む音がそこここから聞こえてくるときがある。

5)

延々と続くような成長痛も或る時期を越えれば、馴染むようになる。馴染めば、保守化する。保守化することは悪いわけではないが、このたびの京都音楽博覧会はこれまでの京都音楽博覧会らしい色を深めつつ、凛然と新たな試みが要所で伺え、頼もしく、その通奏低音として聴こえてくる音風景が既に楽しみになる。京都を越えて、京都を内包して、秋の一場面を縁取り、どんな新しい言語に変換されるのだろうか、と。

称賛として、来し方が何よりもジャズな、ロック・バンドたるくるりが開くcool(head,but warm heart)なこれまでの歩みと更新を止揚するような9度目となる京都音楽博覧会に期待したい。