くるり「最後のメリークリスマス」によせて

坩堝の電圧』の「glory days」は本当に、大事に唄われた7分半の曲だった。「ばらの花」と同じ福島県いわき市薄磯海岸で撮られながらも、全く違った光景。くるり自身の轍を刻んだ幾つものオマージュ。その後のライヴでもハイライトを占める重要な意味を占め、それは岸田繁佐藤征史をはじめ、東日本大震災以降での想いを封じ込めた切なさを得た。過ぎた栄光の日々から、2013年のくるりは年初の武道館公演を経て、自ら立ち上げた”Whole Love Kyoto”を経て、再び模索の中を往くことになった。

メンバー変遷、新曲を巡ってこれだけ話題になることはバンドとして、というよりも、もはや「くるり」が持つ意味性の強度を想わせた。結局のところ、くるりとは誰かに預けられたバンドであり、音楽なのかもしれないこと。京都音楽博覧会で、もう自身でも何度目かも分からないほどに奏でられた「ばらの花」はやはり美しかった。ステージ上の彼らの面々は違うというのに。

坩堝の電圧(るつぼのぼるつ)(初回限定盤B:DVD付き)

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1)

今年、くるりは実質的には新曲と呼べるものは「ロックンロール・ハネムーン」、「Time」、そして、この「最後のメリークリスマス」になる。「Remember Me」はウィーンでの重ねられたストリングスでのリ・アレンジメントであり、「きよしこの夜」は岸田自身のサウンドクラウドがベースになっているのもあるからだ。なお、TVのCMで流れている程よいテンポの「Loveless」はライヴで披露されたものの、リリースには至っていない。

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「最後のメリークリスマス」―

実にくるりのメジャーデビュー15年目の節目を彩る曲であり、福島県相馬市と南相馬市で色んな人たちとMVが撮られている。その中には、京都音楽博覧会で毎年、テントを張るえんどう豆の方々も映っている。そして、まだ、寂しげな街並も。筆者はもう「被災地」という言葉がインフレを起こしているのもあり、そうした付記を記すのはどうかと想ってもいた。なぜなら、もう世界中でカオティックな様相を示したときに、観た光景はどれも比較できなかった。フィリピンのマニラ、タイのバンコク、日本での各地、どれも自身には必要な場所で、必要な人たちに溢れていた。だからこそ、必要な希い的な何かを捧げるべく、現地に訪れては涙を流した。非力だとしても。

あれは 一年前の公園で会った少女だ 
サンタクロースが来ないと泣いてた パパを待ってた

今年度の京都音楽博覧会におけるたおやかな「キャメル」から「奇跡」までの選曲のモード、メジャーデビュー15周年記念ライヴにおけるアグレッシヴなキャリアの総絵巻的なライヴ、そこで軸になった「Remember Me」(http://cookiescene.jp/2013/10/remember-mevictor.php)はもはや、今のくるりの新たなクラシックと言えるような響きを孕んでいたが、岸田繁佐藤征史、ファンファンのオリジナルでは三人体制になってからの彼らは基本、宿命的といってもいい多くの聴き手の背中を少し押す曲群をドロップしてきている。

2)

岸田の指の怪我からうまれた配信オンリーの産物「ロックンロール・ハネムーン」はスタジオ盤では電子音楽の遊び的な要素を取り込みながら、ライヴでは岸田がタンバリンを叩くなど絶妙なアクセント、ユーフォリックな佳曲として機能していた。そして、「Remember Me」はビートルズ〜オアシス、奥田民生の持つスケールとボトムのしっかりバラッドとして年齢層を越えて響き、ウィーンでの新たなストリングス・アレンジメントも功を奏し、よりまろやかにカフェ・オレをたてるように柔和に蘇生し、そのシングルに収まれた「Time」もシャンソン風ながら、セルジュ・ゲンスブールhttp://cookiescene.jp/2010/09/post-115.php)の初期アルバムに入っているような可憐な小品として花開いてもいた。

前述のライヴで既に披露され、現在、CMで流れている新曲「Loveless」も淡々としたメロディーに麗しい歌詞が際立つ、現在のくるりらしい優しい佳曲だが、2013年度版としてはこの「最後のメリークリスマス」で幕引きのみならず、来年へ架橋するような色彩が美しく、優しいモードが存前している。

人気のない場所で たとえば こんな愛をはぐくむ そのテクスチャーをあげよう
悲しみの時代を 生きることはそれぞれ たとえようのない愛をうむのさ

Loveless

3)

さて、表題曲「最後のメリークリスマス」はスキャットも軽やかに昨今のウィルコやジェイク・バグを思わせるフォーキーな感触がまずは残る。ファンファンのトランペットから始まり、雑踏の音、オルタナ・カントリー調のはじまり、駆け足に、これまでのくるりには、ありそうで、あまり見受けられない軽快で拓かれた、抜けの良く、円やかさもある曲。そこには、クリスマスに合わせた鈴の音も聴こえてくる。昨今の岸田の歌唱形式やメロディーにはふと、曽我部恵一的な無防備さもときに見えるが、「最後のメリークリスマス」というシーズン・グリーティング的な何かとは常に位相をズラしながら、季節への敏感さで居た彼らがこういった汎的なモティーフをベースに唄ったということ自体が興味深く、暖かさが聴き終わったあとにしんみり残る。クリスマス、そして、よい新年を、というメッセージ。

いつまでたっても 雪がやまない この街のラプソディー 
通り過ぎる人の波にのまれて 家路を急ぐよ

ラプソディーと、家路。
そして、春になれば、この街とさよならすること。

そんな、くるりらしい詩情も挟みながら、清冽に、そして、湿った叙情を残さないテンポで確かに歩む。ふと、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』も想い出したが、解散や停止も含め、バンドの転がってゆく様とは、そんな無残なものではないと今こそ思う。2010年に観たボブ・ディランは今の声で崩したリズムで、「Like A Rolling Stone」を唄っていたが、素晴らしかった。

くるりもその名前どおり、メンバーの変遷を経ても、まだまだ転がってゆく。

4)

雑踏とクリアーな音風景の中で、彼らは当たり前に訪れる季節の便りを綴る。百貨店で聞くと、今年はグリーティング・カードの売れ行きが好調らしい。しかも、富士山や和的なものと言う。

滑らかに優しく響く言の葉の余韻の縁を辿り、メジャーデビュー15年目を迎えたバンドとは思えない清静しさ、後景に少女、足跡、電車、雪、メリークリスマスとHAPPY NEW YEARまで包含して、シンセと、キラキラしたベルの下でささめ雪のように感情をそそぐ。

枯れ葉舞う 北風やむこともなく 雪は降り続く 遅れた電車が この街の夢をたくさん 乗せてゆく 明日になれば もう この街の景色 全部 変わるだろう 春になる頃には便りを出すよ 変わらないでいてね

とりあえず、変わらないでいてほしい、という希求にも近い想いをこの一年、くるりは綴ってきた。

それは、皆が何らかのすこしの暗澹たる真っ当な、現実の中で生きざるを得ない中で、せめて、シニックにもニヒリズムにもならないように、ということなのだろうと思う。

だからこそ、曲の最後に「第九」の旋律に自然と繋がるのは、“日々は続く”という証左であり、曲名が示す「最後」のメリークリスマスとは深読みせずとも、フラットな自然たる日々を呼吸し、生きる人たちの傍らに添うラプソディー(狂想曲)、それでしかないのだと思う。難渋な日常で過呼吸になりがちな人たちにこの曲は適正なリズム、季節感を戻してくれる。

笑って、クリスマス、および、元気に新年を迎えられますように、と。
きっと未来的ななにかは続くよ、と。