through 2016-same on Julianna Barwick ###

 2016年は「振り返る」のではなく、巨視すると、ずっと此岸から永い先へと繋がってくる悼みと望みの彼方を「見通せる」年だったのだと思う。もう日々の膨大な悲報/訃報にも流されないように構えているうちに違う単位(UNIT)が増えてゆき、禍福は糾える縄のごとく、水面下の現実はシビアながら、時代の移ろい、世代交代の時季がようやく大胆に訪れてきているのだとも。大きい組織体に属することが是ではなくなり、カンパニーで縦割っていた寄り集まり方より、どこかコロニーという横軸の集まりが言われる向きが出てきて、偏差から出す平均値は幻想みたく泡めいた。同時に、AIやテクノロジーの発達はとても鮮やかで、ヴァーチャル・リアリティ、拡張現実の瀬に居合わせる出来る僥倖もおぼえもする。でも、より自分の五感でペンを持つ人は消えなくなるのも明らかになってきて、そのアマルガムの中で便利な世の中で「不便」なことが求められてきている。

 そもそも、身の周りに溢れている当たり前のものは軍事目的や戦争の関係で作られてきたり、発展しているものが多い。日常は翌朝の戦場から再定義されてきたとしたら、きっと、これまで繰り返し、翻されてきた旧態的な憂いや職名は無くなっていくだろう。新たな創史、創職がなされてゆくのと同時に、「知的翻訳された言語」がある程度の作法を通じ、ベースを育み、コミュニティは都度の約束で連帯し、また、別の闘争(逃走)があれば、離合集散するのだとも思う。歴史に垂直に立つのではなく、並列処理の中で、自身の内部で歴史を鳥かごから一羽ずつ出すように。

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 プラセボ効果と呼ばれるものがある。これは過去の体験に依拠した期待値、条件付けが痛みの感覚に継続影響を与えるときに、ある治癒方法で良くなると信じると、脳内神経伝達物質、ホルモンで化学物質が出る効果。例えば、「握薬」なんていうのもそうなるかもしれない。別にそれが本当に薬じゃなくてよく、信頼できる医者などの説明を受けて出された薬を手に握っているだけで安心するような、これは他の事にも幾らでも援用できると思う。逆のノセボ効果に陥れば、痛みは強くなるが、期待の幅次第で、感覚は広がる。これからの世の中は暗澹たるものになっていって、不安や失望や尽きないと分かっていても、快活にwell-beingを進む人も少なくない。多様的な社会形成はそう、いや、全くうまくいっていないと言える向きがあるとしても、排除型社会になっているよ、と思っていたとしても、今は本当に色んな人種、民族の人が当たり前に混じり合えるようになっている。

 そういう意味で、ジュリアナ・バーウィックの存在とアルバムは印象的で、よく聴いた。四枚目を重ねる今作で知った人も多いだろうし、放浪の果てに生み出された結実は進むリアリティに合う。ノマドジーの飽和の時代を越えてきて―。ブルックリン・シーンというものがあった。「あった」というのは、今は、シーンとしてそれを捉えるのは違うからで、ヴァンパイア・ウィークエンド、アニマル・コレクティヴ、イェーセイヤーなどそこから縦横無尽に活動の幅を拡げていて、シーンというのは実質的にハッシュタグで形成されるような脈絡でしかない場合もあり、その#が無限増殖してゆくのは、PPAPのみならず、私的にベックの「Wow」が指針的にあった。

 Wiredで記事(http://wired.jp/2016/10/23/beck-instagram-clips/)になっていたので周知の人も多いだろうが、インスタ的なものを先取っていき、正直、オフィシャルの葉脈の恒常性が面白かった。
 
 また、京都のTOYOMUにも魅かれもした。何かと話題を振りまいたカニエ・ウェスト、その新作『ザ・ライフ・オブ・パブロ』を巡って、日本国内では手に入りにくい状況下―詳細はもう幾らでも出てくるので、調べてほしいが―タイトル名やサンプリングで想像で作り上げていったというもの。また、シンガーソングライターとして以外に、完全に今の日本の主要な場所に、しかし、オルタナティヴに占める事になった星野源、の『Yellow Dancer』というアルバムをモティーフに闇鍋に煮込んだような『印象I : 黄色の踊り(Yellow Dancer Arrangements)』TOYOMU - 印象I : 黄色の踊り(Yellow Dancer Arrangements) - YouTubeもクールだった。簡易な引用じゃなくオマージュじゃなく、なだらかな盗塁。選手陣営が張り詰め過ぎているがゆえに、こういった行為性は肝要になる。

 だから、今さらジュリアナ・バーウィックの名前を挙げるのは気恥ずかしさと、十二分なキャリアに裏付けされた意味合いの深度に恐縮をおぼえてしまうが、あえて。彼女自身の音源に触れていなくとも、レディオヘッドの「Reckoner」のリミックスRADIOHEAD - RECKONER (JULIANNA BARWICK MIX) - YouTubeで知ったという人も要るだろうし、ネクスト・ビョークだ、とか、オノ・ヨーコ関連で辿ったというもあると感じるものの、やはり「間違っていない」音を奏でる人だと再認のもとで。

 昔に、今のようなカオティックなEUじゃないスペイン、ポルトガルを訪れたときに、エンヤの曲が中和していた風景が脳裏をよぎるが、彼女はその続きから始めている感じがある。だから、今の瀬にフィットして、ずっと聴いていられるのとともに、このMVでもインスタレーションの集合態のようで、音風景は始まりが終わりなのか、終わりがそのまま始まりに戻ってゆくのか、濁されながら、消え、そういうところが美しく、未来に憂わないで居られる。きっと、そのままにまた、始まる。


Will

Will

黒沢健一さんについて

 上方落語の名作のひとつとされる「たちぎれ線香」という演題がある。有名な内容なので周知の方も多いだろうが、船場の商家の若旦那と小糸という芸妓さんへの恋を巡っての悲しく、情味溢れる話。私的に、その好きなエピソードに実質的に現代に蘇らせた人間国宝、故・桂米朝さんのある時の「たちぎれ線香」を聞いて、この噺を誰よりも愛していた門人の故・枝雀さんが感動で泣きながら、楽屋に入ったら、衣装を脱ぎ捨てた米朝さんが大声で「親子丼、どこにある?」と叫んでいる現場にあたり、さっきの涙を返してほしいと枝雀さんが思った、というものがある。これをして、フィクションとノンフィクションを分けているプロフェッショナルの凄さやオンとオフの境目を縫うドライさがないと長距離の人生の中で、味が出てくる訳ではないなど啓蒙的なことを含ませようというのではなく、何でも「過ぎる」と、病んでしまう可能性があるという証左だ。「病む」という言葉が不適合なら、狂気と正常の境目を縫うくらいのところに行ってしまう人はそう居ない。ましてや、そこから時代に名を遺す人たちは本当にごく僅かの僅かだ。

 しかし、執念はどんな境界線でも要る。妄執にならない次元で。

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 今年、逝去した黒沢健一氏のことを想うと、なぜか上記のエピソードとともに、境界線を渡り歩いていける人だったことを痛切に感じ、いまだに喉元に引っ掛かって消えない。

彼は死なないというと変だが、歳を重ね老いても、ギターを持って歌っている姿がなんとなく想像できたからで、ニール・ヤングしかりボブ・ディランしかり、ポール・マッカートニーブライアン・ウィルソンなどの例に違わず、黒沢氏自体の作品リリースが空いても、サイドワーク的なプロジェクトやプロデュース・ワークでクレジットを見れば安心した。そういう存在はなかなか居そうで居ない。巷間では、L⇔Rのイメージが強いだろうし、ドラマ主題歌としての大ヒット「Knockin’ On Your Door」の印象もあると思う。商業主義じゃなく、精度の高いポップ・ソング。

 実際、訃報のあとの膨大なコメントにはそういった旨が沢山あった。裏方から始めたかった気質、頑固なようでシャイで、捻くれているようで、衒いのないポップスへの歴史への敬愛に溢れていた人。彼をして、稀代のポップ職人、膨大な音楽的知識に支えられた細部への拘りを持った才人という向きがあるのは承知で、取材で彼がビーチボーイズ、ルーツ・ミュージックなどについて話しているのは目立つ。でも、筆者のように彼の音楽から〈A&M〉のレーベルの作品群をあさったり、ロックンロールという前の音源を巡ったり、またサイケデリック室内楽的な音楽に魅せられた人も居ると思う。ブライアン・ウィルソンのマッドな才能が突き詰められた、実質は未完といえる『SMILE』に還るように。完成を前に投げ出すのではなく、近年の彼の音楽には何より音を奏でる楽しみが溢れていて、ただ、ストリングス編成だけのライヴをおこなったり、スタジオでの緻密なワークまで往来する自在さは新曲をコンスタントにリリースするスタンスに信頼もおぼえていた。自身、彼に奇抜なプロジェクトを起こしてほしいとかはなく、それこそ近年では、世の中の趨勢もあれども、ライヴ撮影OKをいち早く始めたり、緩くも、後継に音楽の豊かさを伝えていってほしかった。

 本物でも 偽物でも
 気にもしない 君が好きさ
(「Rock’n Roll」

 そもそも、L⇔R活動停止後のソロ名義でのシングル二作目に、大文字の“ロックンロール”という題目を用い、3分に満たないハミングが印象深い曲を持ってきた人だ。本物じゃないと、偽物に気付けない。でも、あえての視角からじゃないと本物の周縁をカモフラージュできない。「あえて」は玄人が気づけばよくて、誰が聞いてもいいものは良いものだという強度を持ちながら、細部に降りてみると、その伸びやかさに唸らされる。そんな、気付きを幾つももたらせてくれるところからして、少しだけ“彼のこと”を想い出してみる。細かい点は各自の精確なサーチや資料から確認しておいてくれればいいことを前置きして。

***

 L⇔Rの幕開けといえるひとつ、ポップ・ソングの命題のひとつのテーマたる“Girl”を巡っての美しいハーモニーワークとフィル・スペクター的な巧みなセンスが溢れる「Lazy Girl」という曲で「マチネの切符をやぶって 夢みてばかりの悲しいWEEKEND」、「ピクニック気取りで通勤ラッシュを 横目で見ている PAPER DRIVER 支えのきかない 危ないBEDで 眠るのやめなよ OH MY LAZY GIRL」というクリシェを書くときから、既にエレガンスさと90年代のJ-POP的なものとは一線を隔していた。

 また、L⇔R時代では一番好きなシングル「恋のタンブリングダウン」みたいなサイケでユーフォリックでインドアで"ソング・サイクル"にねじれる曲と、エヴァーグリーンな青さを封じ込めた「君に虹が降りた」という組み合わせを発表してきたりで、巷間的に一気に知名度があがった「Remember」、「Hello It’s Me」あたりからの流れだと零れ落ちてしまうものがあまりに多すぎるのが都度、感じていた。その象徴に、最大のヒット曲の「Knockin’ On Your Door」の3曲目に「It’s Only a Love Song」という前作になるアルバムからのイロニカルで秀逸な曲を忍ばせたり、バランスよく毒を盛るところも彼らしく、ただ勿論、彼だけの力量や才覚ではなく、都度のメンバーや共同制作者との呼応もあるのは言わずもがながら、「Bye」、「Day By Day」、さらに「GAME」とシングル・カットが続く95年から96年の過度な狂騒。そのいわゆる、カップリング曲が今でも、反骨と奔放な遊び心が見えるものばかりで当時、リアルタイムでそっちの方が気になったのを思い出す。ベンチャーズ的なフレーズが楽しい「Chinese Surfin’」、シンプルなフォーキーさとオールディーズのアマルガムな「Cowlick(Bad Hair Day)」など。更に、サビだけがCMで流れると、ここまでのキャッチーな流れを受けたものかと思いきや、インドのシタールがうねり、サビ優先で作られた曲だったという「Nice To Meet You」から自身(たち)への相対化、見ざる聞かざる言わざるをメンバー三人のアーティスト写真に使い、アルバム名にかならずLとRが入っていたものさえ放棄して、振り切った97年のL⇔R名義として活動休止に入る最後のオリジナル・アルバム『Doubt』へと。

 これからの抱負なんて 正直言って分からない
 しゃべり切った未来を このまま流して
 「それじゃない やるじゃない」なんてお世辞言った君だから
 疲れ切って 過ぎてく 水曜日
 (「アイネクライネナハトミュージック」)

 Lazy “Girl”の姿はとうに無くなり、そして緩やかに彼はソロを始め、それまでの縛りから解き放たれて自由に裏方を演じるように幾つもの活動やプロデュース・ワークを経て、何か今聴いても切ないバラッド「Grow」という1曲目が水墨画のように滲む09年の本人名義の四枚目のオリジナル・アルバム『Focus』ではまた、彼自身の歌う姿が見受けられるようになり、私的にここらあたりから肩の力の抜けた、また諧謔精神やセンスより、ときに切なる想いやフレーズ遊びをぶつけるようなスタイルが好きだったりして、また、決して声量で魅せたり、味がある歌い手ではなかったが、彼の声だからこそ出る色彩はやはり他のワークスとは、違っていた。

「Grow」

 2013年の『BANDING TOGETHER in Dreams』ではL⇔Rのメンバー参加も話題になりながら、その後、こういうほんのささやかな記事黒沢健一『So What?』/ musipl.comも書いた。

 軽やかでまた、歳を重ねてきたがゆえの円熟味も増していて、マイペースな彼の活動を見守っていけるのが嬉しくもあり、今年の不意に入った病気療養の報もなぜか安心しているところがあったのが、

 ―いなくなってしまった。


 まだ実感が湧かない、というファンも多いだろうし、今回のことで黒沢健一の名前をまた再確認した人も多いと思う。だからこそ、彼の遺した音楽は尽きず口ずさまれるように願う。どれだけポップ・ミュージックが必要のない余裕のない世界になっていっても漂流(Wondering)しながら真逆に、真摯に、彼はずっと「歌の中」に居る。時間差でまた、涙や喪失が来るのは分かっていても。

 今すぐに 消えてゆく
 言葉より 君の声を
 (「This Song」)

LIFETIME BEST“BEST VALUE”

LIFETIME BEST“BEST VALUE”

スピッツ『醒めない』

はじめに)

 近年は公式You TubeやVimeo等等でMVを発表して、その関連付けまでいかないケースがある。この前のフランク・オーシャンの急なリリースにも驚かなくなった。なので、今回の日本におけるビッグ・リリースのひとつ、スピッツの新作『醒めない』からあれこれ考えてみてもいいかもしれない、と短いながらこういう記事を書く。

表題曲の「醒めない」もフルレングスで公開された。

 ガラパゴス化を進め航ける日本の中で、悠然と立つアティチュード。そして、あらゆる”まとめ”の中で、再評価がされ続けているバンドとして。筆者自身がスピッツに出会ったときは90年代半ばだったのもあり、まだSNSの発達もなければ、ミシェル・フーコー的な監視社会も台頭しておらず、のどかにCD、アナログ、または書店から雑貨店が併存していた。ただ、今、恒常性を保っている街は減ってしまった。グローバル化だけじゃなく、IoTの問題なども根っこにありながら、人間が「ヒト」に退化する過程でその“いぶき”を読む余裕がなくなってきたともいえる。だから、即決やTEDトーク、論破が受ける。それもそれでいい。ただ、分かり易いことは本当はその擬態の中で、内奥性から実は牙を向いているのだということ。スピッツの昨今のもどかしさを霧消させるこの2016年の様は凛然としている。

 ライヴと作品をリンクしているような最近作から見えたものから、「作品」として擬態して、いつものスピッツでありながら、しっかりキャリアを重ねたスピッツの矜持が見えてくるような。14曲の中に、移ろう儚い反逆性と、ロックへの忠誠心が過去のレジェンドへのオマージュ、そして、現在進行形のアーティスト、バンドへ向けての発破のように響く。ボウイもプリンスもいなくなった瀬によせて。

クロニクルを捻じ曲げる)

 さて、今作は、バンド・サウンドというか、元来のパンク精神に立ち戻ったアルバムであり、そこかしかにザ・ブルーハーツや初期のエレカシや、ネオアコ的なペイル・ファウンティンズ、アズテック・カメラ、そして、チルウェイヴからのネオン・インディアン、ユース・ラグーン的な流れ、昨今のワンオクからゲス乙女、インディゴなどからの影響が総花的に纏められながら、歌謡曲的要素といつになく、切り詰まったファンタジーの馨りがただよっている。かれらは、いつもロックの亡霊を現世にコーリングするのが巧い。スピッツ史上、最も軽快な冒頭曲「醒めない」。これは『Crispy!』のそれ

を思わせながら、コステロ・アンド・アトラクションズのはじけていた時期やザ・ポーグスを想い出しつつ、あくまで非常に真摯な外れ者としての曲となっている。ホーンと撥ねるビート。そして、覚悟を決めたような歌詞。ここでも書いた、そこからリード・シングル曲の「スピッツ『みなと』/ musipl.com」で、黄昏れながらも、あくまで前を向く。

また会えるとは思いもしなかったゆえの、投企)

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 キャリアを重ねたがゆえのセルフ・オマージュのようなうたから拡がるパースペクティヴに、「子グマ!子グマ!」では軽やかなロックンロールに游ぐ。ここでもけもの道を往く逸れものの意識を融かしながら、ヴァンパイア・ウィークエンド・ミーツ・ディスコのような人力のサイケデリアが可憐に咲く。四曲目の「コメット」はドラマ主題歌もあってか、メロディアスで美麗な曲。スピッツの曲群のなかでずっと愛されるような「魚」のような滋味深くも切なさ、会者定離の距離感が滲む。儚さゆえに、いくつもの若手バンドの曲を想い出すかもしれない。それでも、五十路路近くの彼らがそれを唄う反逆性に胸打たれる。「ナサケモノ」、「グリーン」、「SJ」とたおやかでナイーヴな曲が続く。

 今回のアルバムはライヴでの再現を勿論、予定されているだろうが、構成が麗わしくとどく。『醒めない』の表題のままに。「ハチの針」で、若手バンドへの牽制か、オルタナティヴ・バンドの矜持をみせる。尖ったようで、蝶の様に舞うイロニー。スピッツが何故に大文字に委ねて安寧的な何を求めないか、が解る。「モニャモニャ」はチルアウトのための、ストレンジネスをモニャモニャが暗喩越しに柔らかく届ける。その郵便を受け取ってバグったように、暴れる「ガラクタ」は賑やかなトイボック・パンク。深読みできような歌詞でもあるが、あれこれ行き来しつつ、いつものファンタジーの狭間で複雑なリアリティをシンプルに刺す手法が活きている。期間ごとでセッションを区切っているにしても、このアルバムの内部は通底する初期衝動が巡っている。

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 渋谷、新宿の小さなライヴ・ハウス、今は亡くなったアーティスト、バンドたちへの畏敬、今サヴァイヴしている者への深い畏敬、サブ・カルチャーと呼ばれる死語的な何かや異形な何かへの愛的ななにか。中野ブロードウェイに行った、あの感じ、下北沢、プリンス、ボウイの残映と、ロックンロールがファッションじゃないこと。

 筆者は、東京にそこまで詳しくなくても闇鍋のように醒めない意識がここに、いいオトナのままで詰め込まれていて、それが反骨的でまた嬉しくもある。最後の「こんにちは」は、作詞・作曲者の草野氏が言うようにザ・ブルーハーツのオマージュ的であり、同時に、このアルバムそのものが、妙齢のバンドなりに通過してきた長く険しいハイウェイを通じたゆえのロックンロールだからでもある。弱い犬ほどよく吠えていた、のではなく、か細くも吠えていた声がセントラルからいまだファンタジーから醒めず、現実を見据えている人たちを射抜くような気がする。ここからまた。

 『空の飛び方』、『ハチミツ』、『とげまる』などなど数えきれぬ幾つもの良質なアルバムをリリースし、シーンを引っ張ってきたバンドの『醒めない』という響きだけで胸がいっぱいになる。ライヴも美しいものになるだろう。

 今翻るに深くは言及はしないものの、1995年の「ロビンソン」でのブレイクは間違っていなかったのだなと想う。今の感性で色んな世代が聴ける、そして、それぞれに感覚が変わる―それがスピッツの本懐なのだろう。ロビンソンの中も醒めていない世界観がふわりと聴き手を赦すからだ。赦されたものは、大きな空に浮かべる。

醒めない(初回限定盤)(DVD付)

醒めない(初回限定盤)(DVD付)

My Private Best 30 Discs 2015

2015年は世界の現実がより峻厳になってゆく中で、カルチャーの強度をもう一度、見直し、古典を捲りながら、同時に、そこへアクセスできる権利が誰もが持てるようになっている”よう”で、「都市(中心部)」はよりヴァーチャルに、排除のための第三者の壁を設定していくような錯視性も憶え、そこで意味を持つ音楽の内奥によりドリーミーに、ロマンティックなものを求めたような気がします。政治、経済、環境、民族間問題、エネルギー、資源…未来への課題群が増えるばかりでしたが、シビアな状況にはシリアスなものというのも留保するとしまして、やはり「合わせ鏡」として、分かりやすく、刺激的で盛り上がる音楽は、「解り難い、現実の多様性」への理解幅を狭めてしまう可能性があるからで、刹那を縁取るといいますより、国境を越えやすくなった分だけ、漂白された問いではなく、国境を越えたあとを夢想させるような先の、鉄条網の前で響く音楽の意味を考えました。要は、サステナビリティのための答えを考えるための問いを作る段階。

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そうなってきますと、自然と音が持つ”発語の可能性”といいますより、”再想、対話の可能性”に連結する感情の内側には、新しいノスタルジア人工知能が発展し、テクノロジーが極度に人間の肉体性をときに奪う中での創造/想像性を刺激し、宥める、そんな緻密な音楽が適応するものが多く、その音楽の中で、十二分にこれからの「春」の季節の芽吹き、春を越えての行列の中で迷わない術に意味を馳せるという所作が出てきました。

この三十枚は、アクチュアルな意味で、何らかの古典の再解釈を挑んだり、それぞれにキャリアを重ね、行きついた闊達さ、現代音楽的要素を組み込んだオルタナティヴ・ミュージック、ポップな無国籍性を含んだものを選びましたのも、まだ終わり切れない2015年がその先にも続いてゆく“続き”のための文脈がありました。2015年の同時代性を帯びながら、ずっと再発見されるだろう何かとしましても。

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マックス・リヒターは、8時間の睡眠をテーマにしたアンビエント・ミュージックでもない、悠遠な作品を作り、ザ・イノセンス・ミッションは変わらず、音楽の躍動感、ポップネスを提示してみせ、デデマウスはこれまでと違うファンタジーに新たな物語を仮託し、ヒオール・クロニックは静謐な荘厳さを音像化したり、と馴染みのアーティストたちの充実に加え、ゼンカーブラザーズ、ハイク・サリュなどの気鋭のこれからも楽しみです。無論、ベテラン勢のブラー、ウィルコ、佐野元春などはまだまだ円熟ではない、鋭さがあったのも頼もしかったです。現実を抱え込みすぎたのならば、音楽の向こう側に想いを馳せてみる―そんな時間を敢えて取ってみますと、新たなパースペクティヴが拓けるかも、という願いも込めまして。より、反動の反動が生まれてくるうねりを感じながら。

1,Max Richter『Sleep』

SLEEP

SLEEP

2,Musette『Cosmic Serenade』

A Cosmic Serenade [Analog]

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3,Owiny Sigoma Band『Nyanza』

Nyanza [輸入アナログ盤 / DLコード付] (BWOOD142LP)_148

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  • アーティスト: OWINY SIGOMA BAND,オウニー・シゴマ・バンド
  • 出版社/メーカー: BROWNSWOOD RECORDINGS
  • 発売日: 2015/09/12
  • メディア: CD
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4,Floating Points『Elaenia』
5,Zenker Brothers『Immersion』

6,ダニエル・クオン『ノーツ』

7,Nujabes Fea. Shing02Luv(sic) Hexalogy』
8,The Innocence Mission『Hello I Feel The Same』

9,Julia Holter『Have You In My Wildness』
10,De De Mouse『farewell holidays!』

11,Father John Misty『I Love You Honeybear』
12,Hior Chronik『Taking The Veil
13,Foals『What Went Down』
14, Kendrick Lamar『To Pimp A Butterfly』
15,Battles『La Di Da Di』

16,Olafur Arnalds & Alice Sara Otto『The Chopin Project』
17,Nils Frahm『Screws』
18,Blur『The Magic Whip』
19,Leon Bridges『Coming Home』


20.Haiku Salut『Etch And Etch Deep』

21,本日休演『けむをまけ』

22,WilcoStar Wars
23,Marina Fages『Dibujo de Rayo』
24,高橋徹也『The Endless Summer』
25,Masayoshi Fujita『Apologues』

26,星野源『Yellow Dancer』
27,佐野元春&ザ・コヨーテ・バンド『Blood Moon』
28,Unknown Mortal Orchestra『Multi-Love』

29,Elintseeker『Geography Of The Heart』
30,Swinging Popsicle『flow』

come out diversity,

この三年くらい、亡命を考えることがよくあった。「亡命を企てることがよくあった」というと、全くニュアンスが変わってくるので留意の上、どこからというと、日本という「国(nation)」から「単位(unit)」へというレベルで、何だ、日本には居る訳でしょう、というのは先刻承知の上で、時差ボケが「一気」に同時代感覚になったというのが大きく、自分は日本の80年代後半からのバブルも知らないくせに、00年代半ばくらいに異国のバブルを異国で知って、これはアカデミックにバジェットが取れるぞ、と当時、今も恩師の方と話をしたくらいなので、おそらく、年齢的に「ポスト団塊ジュニア世代って割が合わないよね。」と言われるほどの感じはなく(「割が合う」ほどの割を食っていないからでもあり、割合的に数としては厳しいなくらいで。)自分の場合は、1999年からの20代くらいが全くもって景気が悪かった。とはいえ、たまたま居た組織では羽振り良かったり、歓楽街を知ったりできたので、そういう「景気の悪さ」とはまだ無縁で、周りも「30代に入って結婚だね。」派と、「堅実に今から子供の教育を。」派、「うちらの50年後なんてやばいでしょう。だから、年金払っても無意味だよね。」派と、が鬩ぎ合いながら、ときは“失われた10年”の延長線、9.11のあの憎悪がどこから来たのか、多角的な民族的対話が求められる、という書割のニュースのように、まだグローバル化に牧歌的に居られたころ。中国を厭っていた父含め、なにかと中国に行きだした00年代というのは、道路工事だらけで、トイレも整備されてなくて、空気も悪くて、本当にいい加減で、物騒な生暖かさがあって、「楽園」みたいだなーと、実際、桂林というあの水墨画のような川下りの旅の帰りのフライトでRIP SLYMEの「Galaxy」聴いて、「凄い良い!」と感動して、即買ったのが2004年のことで、何とも早10年。ノスタルジアはレタルギア(嗜眠症)的に、部分をチョイスしてしまうので、“昔は良かった主義”は苦手で、"未来は明るい"掛け声はもっと苦手で、現状をどうロールしてゆくか、に照準を合わせた方がクールに楽しめる日々の行間が増えるのにというのは思っていたものの、2010年あたりから日々の行間の詰まり方が自身の物差しより巷間の方がマッドになってゆくような気配があり、そのときに、「TwitterFacebook楽しいなぁ」とドーパミンが出ていたのは、選好曲線の中でまだ言葉が活きていたからかもしれず、ネタがベタになって、ベタがメタになって、ワンフレーズ・ポリティクスにひねりがなくなり、有吉弘行さん辺りの「あだ名」が亡きナンシー関女史の消しゴム版画の一言を指す批評性を持ち出すようになってから、平和(大文字的な文脈じゃなく)性を持った「正論」の意味がどこか、「斜から構えた偽悪を是としましょう」になった気がして、「実はあの人、良い人らしいよ。」というのは本音と建前で云えば、朝飯前の寝息に近い訳ですから、寝息をメディアが立てているあいだに、物騒と殺伐とファンファーレは鳴り響き、アベノミクスといういまだしっくりこないスローガンがまかり通り、オバマはレーム・ダックになったとかどうとか、北京ダックの店には行列ができて、尚且つ、SNSは恒常化し、動画配信の名の露出過度な「自意識」がひたすら被験者を試すという臨床例が大学によくあった少しあやしいバイト掲示板に貼られなくとも、自然と増えていった。うちに、天変地異、人災から情報過多、インフレが寧ろ、「静粛に、厳密に」人たちの背筋をただした倫理を戒めていった結果、無事に各自に番号が振られるようになった2015年秋。多くの「昭和」が消え、「平成」の名残もじわじわと淘汰されていきながら、パラレルにレクイエムを捧げすぎて、不謹慎ながら誰が生きているのか、むしろわからなくなる―それは自分がそういう事が起きるからでもあり、そこのTLはどれくらいの速度で消費されるのだろうか、というのは眩暈をおぼえるくらい、残酷でもあります。

色々あって、生物多様性サステナビリティ工学についてシフトしてゆくようになったのも、時差ボケから「覚めてきた」ら、自分が搭乗していた飛行機が欠陥品だった、そもそも、欠陥品として乗ってくださいと指示されていたものを巨像(虚像)動くまで待つ、のような経済誌の見出しに倣い、構えていたら、本当にじわじわとブラック企業ならぬ、ブラック・スワンは筋肥大していって、このまんまじゃ危ないよ、というコンセンサスを異なるフィールドや異国から得るようになった。だって、「将来の夢は」の問いに「年収1,000万稼ぐことです」は答えじゃなく、「その1,000万で何するの」に「さらに、倍にします」っていうのは仕事という目的論が梯子外しをされた手段としての本当のバブルになってきたのが島国・日本の極北だなと想いもするものの、目先の生活維持は大切、でも、割引率の概念もより大切となると、循環型社会をどう今からスキーム形成してゆくか、を模索する方が利が上がってくる。新世界は要らない。旧態資源をどう再配分して、刷新させて、ウェルカム・ボードにできる限りの多様な人を呼び込むか、そこを目指すための過程での時差ボケが解消されたとしたら、悪くない。のかも、と。


サステナビリティ3.0 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文

サステナビリティ3.0 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文

weather jamming

クロスオーバーとして、「気候変動の適解」について話し、考える機会が出てくる。年々、季節の機微、気象の奇妙さ、という個別の内在感覚論からマクロなレベルで人間社会の警鐘のひとつとして自然がおかしくなってきているというものまで。時間差で訪れる秋待ちの熱帯夜、冬の寒冷に靡きながら考えるに、おそらく、具体的な気温や湿度で「何か」を語っても、意味がないということで、それらの一要素がシステムの中で人為的に制御できるのか、しかなく、そのシステムが過去からの膨大なデータによる予防線に伴う命題設定としたならば、よくある「気象データだけ見れば、今夜は雨から、もしくは“雪になる可能性”が高い。」という際の雨と雪の差は生活者からすれば、雲泥の気象状態といえるものの、分析し、予報する側も幾ら見識が高まり、ビッグ・データを用いても、読み取れない閾値が拡がっていることでもある。バタフライ・エフェクトみたく、中国の黄砂渦巻く内地で蝶のほんの羽根のはためきで、遥か海を越えた北米大陸で竜巻が起こるなんて所作は、SF的でさえないのかもしれない。狭い日本でも地域が離れたら、竜巻や豪雨が起き、まったく無風で快晴の場もある、そんなケースも当たり前に散見できるようになってきたが、部分、断片性の問題ではなく、とても大規模な可逆不可性を帯びていたりする。アフリカ、インド、南アジアでの熱帯地域が大きく気候変動したときに崩れる、シリアスな生態系への影響や食糧を築きあげる農業への影響など、包含視座を持って、では、何が、というのはもう進んでいる研究のひとつとして。

ただ、条件付けとしても、気候変動や地球温暖化という大文字もショートカットの惹句になるので、幾つものモデルをリファレンスしたりしないといけない。有名どころの“DICEモデル”であったり、評価モデルから遠因への統合接線を敷き、同時に、石炭、石油、天然ガスを主とした化石燃料、炭素燃料により排出される“二酸化炭素”が主因に置かれているが、その二酸化炭素温室効果ガスとして置換過程のショートカットはまた限界があることも考える。排出された二酸化炭素が増え、温室効果ガスが大気中に長期「滞留」したらどうなるのか、滞留するほどに高まった濃度が水陸の温度上昇をもたらすのはわかるが、そこからどこまで派生してゆくのかとなると、人為的な文明活動の抑制だけでフィードバック効果の多寡ははかられなくもなる。ほんの未来に向けた環境意識へのフロー作成が「気づき、政策立案、部門選好」の通り一辺倒ではなく、経済学の概念「割引」に則って、現在財と将来財を比較検討し、時間価値との選好率を汲み取らないと、など対峙していると、二酸化炭素の対処プログラムとしての極度な森林プロジェクトやらラックナーの人工樹木辺りの題目が自然と目に飛び込んでくる。スーパー・ファーミングも精緻にそうなるが、新たな農園都市作成、という段階でのバジェットと外部要因が変容しているなかで、そのままで推進できる余白は今現在では“絞られる”はずなのだが、当時のまま、計画通り、アプローチは始まっている。でも、現場セクターでの人材も知財も明らかに不足し、情報は非対称化し続けている。代替リソースを探す手間も省かれたままに、というのが難渋なところで、というところで、気象工学分野の充実など世界的潮流として今後、増えていくのはいいような気がする。人文科学、社会科学分野の日本に限られたガラパゴス的削減とは全く別枠に。

序)京都音楽博覧会2015−クールの予兆

1)

早いもので、京都音楽博覧会2015 in 梅小路公園も今回の開催で9年目を迎えるという。もはや、日本の夏だけに問わず、一年中、各地域で欠かせなくなったあまたのフェスやイヴェントと比してみるに、やはりその都度の重みと彩味、独自のテーマがあらわれるというのは、魅力のひとつかもしれないと痛感する。

JR京都駅から歩いて15分ほどの市民の憩いの梅小路公園をベースに用いて行なう大規模な音楽イヴェント。周辺環境への配慮のため、音量は絞って行なうのは当初から変わらない。出店と、京都の町そのものがバックスクリーン、そして、リニューアルのため、今夏に一旦、閉鎖されるものの、蒸気機関車館や蒸気機関車の汽笛、走行音だった頃からすると、今は公園の中にも幼児玩具などが増え、華やかになり、2012年からは京都水族館ができ、より賑やかになった。その分だけ、ライヴのタイムテーブル、その前後も難渋な条件性をクリアランスしないといけないことが多々出てくる。京都水族館のショーの時間は音を出さないなど、当世はネットの発展や個々意見の即座の反応が見えてしまうのもあり、リスク・ヘッジが当然となっている。

そんななか、隣接する京都水族館との兼ね合いで、京都水族館京都音楽博覧会の打ち上げ兼特別配信を行なう。もちろん、9年目にして初めての試みだが、こういう緩やかな連携は微笑ましく、それは水族館サイド、音博サイド、お互いが共存共生のために合意、理解を示すべく道を切り拓いてきたからこそ、なし得たことなのかもしれないが、京都音楽博覧会の長く異端な路を振り返ると、またひとつ感慨深くなる。

2)

雨に降られた初年度のやや厳しい表情と、世界の音楽をショーケース的にではなく、エクスポとして楽しんでもらいたいという熱量と観客側の温度差がやや乖離していたように思えたときから、回を重ね、ロック・ポップスの枠を越え、日本でもなかなかフェスには出ない人たちが参加するようになり、世界の色んな国からも思わぬアーティスト、バンドが来て、また、くるり・ザ・セッションという名義で現くるりメンバー、過去のくるりメンバーとライヴを行なったもの、ひとりジャンボリーといった弾き語りで自分の曲やカバー曲を披露する、といった、その時だけの企画やカバーセッションなども現場における何よりの楽しみが伝播していったのだろう、「秋の京都音楽博覧会はまったり大人も子供も楽しめるし、いい。」、「夜7時に終わって、そこから食べたり、散歩もできるし、京都観光と絡めて行こう」、「ここでしかない柔らかい雰囲気が好きで、各地域、遠方から来ている」といった声が増えていった。くるりが地道にコツコツと築き上げてきた大切な博覧会は、みんなのものになっていき、京都でさえ急速に進むフラット化の波に頑なな京都“らしさ”でもてなす。だから、チケットを持っていなくても、タオル片手に外でボーっと聞いている風景も、親子が子供を遊具で遊ばせながら、「これ、お母さんが好きな曲よ」と子供に振り向かせている風景も心地良く排除されず、ひとつの秋の情景に溶ける。なにひとつ弾き合わないように。

京都の持つ伝統的な文化の深さ、根本のエネルギーに極度に振り回されないように、同時にそれらを内面から書き換え、リブートしている節さえ伺える稀有なスタンスを保つ博覧会が今年、魅せようとするひとつは「クール」と言えるかもしれない。いや、「クール」とは違うのじゃないか、という言葉もすぐに出るだろう。主催者たるくるりは、いつもこのイヴェントに向けて、ある程度のヒントを出す。それは、実際のラインアップの発表であったり、作品のリリースそのものであったり、特別編成のメンバーであったり。今回でいえば、ラインナップとともに、「ふたつの世界」というシングルがその謎解きのひとつになるだろうか。

忘れないで
生まれ変わる時が来ても
心がちょっと近づいても

交わらないふたつの世界
輪廻の輪の向こう
回る回る 記憶をつなぐ
また会う日まで
(「ふたつの世界」)

くるりの曲の中でいえば、「さよならリグレット」辺りのチェンバーポップに、近年の「ロックンロール・ハネムーン」みたくユーフォリックな煌めきを合わせた、ポップに転がる切ないかわいらしさを持つ曲。そして、往年のXTCから受け継いだメロディー・センス、同じく、マッドな領域にいるほどに冴えているブライアン・ウィルソンヴァン・ダイク・パークスの轍を継ぎ、大瀧詠一山下達郎的な行間を通じて、日本における変わりゆくインディー・シティ・ポップの地割れの点を穿つような要素が色濃く明射する―くるりたる由縁があちこちに溢れている。また、歌詞の間に漂うのは岸田繁が敬愛する奥田民生の香りを孕み、シンプルがゆえに、言葉そのものに聴き手が傷つけられることなく、想いを託せる優しい余白が用意されている。くるり史上初のアニメとのタイアップというのもあるのだろうが、「輪廻」という今までにないフレーズもうまくハマっている。当該シングルは、初回限定盤には、進行形で行なわれているくるりの過去のアルバムの再現ライヴ・プロジェクト『NOW AND THEN』の一部もボーナス・ディスクとして付く。ただ、意義深いのはヴァージョン違いたる「ふたつの世界」(Bebop Ver.)だろう。

ビ・バップ(Bebop)。主に、チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーからなった非常に高度な演奏技術に基づいた音楽で革新的だったが、大事なのは「調性」を揺らがそうとしていたところだ、とここでは置く。だからこそ、マイルス・デイビスがいわゆる9重奏団で挑んだ『Birth Of Cool』での音像は即興と編曲の調性を保ち、高尚な分かりやすさを持つのも道理で、ビ・バップから、クールへ、と断線、または反動の文脈を敷くのではなく、モダン・ジャズの歴史の変わり目の必然的な豊饒たる収穫のひとつなのだろうと思う。ビ・バップで踊れる人と、クールで聴き入った人、モダン・ジャズの豊かな潮流の下、交差する場所は対照的なようで、とても近い。

昨年の京都音博はレポートで、サロン性をベースに書いたが、今年の京都音楽博覧会は多面的な意味で、クールが要所で感じられるのではないか、と思っている。

3)

くるりは、元来のオリジナル・メンバーの岸田繁佐藤征史、とともに、母体へ配慮しつつ動いているファンファン、と個々が多面的な活動を行ないながら、「くるり」として集まったとき、サポート・メンバーとの時おりの関係性含め、日本のみならず、世界の街を渡り歩く楽団のようである。キャリアも長くなり、ささやかな機微で表情を変えてしまう曲をあまた持っているバンドだからこそ、アレンジメントを変えたり、サウンド・チェックでサラッと過去の佳曲をフルで歌ったり、その中で醸される空気感はますます、ワン・アンド・オンリーのものになっているが、いつか、ザ・フーを観たときも思ったが、キース・ムーンは居なくとも、メンバーは老いていても、ピート・タウンゼントのあのウィンドミルには胸打たれたり、全体のグルーヴは枯れていなかった。メンバー変遷、音楽性の変化を経て、円熟味も出てきながら、「それでもなお、くるりは、より、くるりである」という記号性ではなく、強度が増していると感じるのは岸田繁佐藤征史のオリジナル・メンバーが居るから、だけ(それはかなり大きいのも確かだが)の問題でもない気がしている。

岸田繁は旅というモティーフに、人生や音楽、文化の結い目を見出す、気付きを持つような旨を取材などで云う。実際に足を運んでの旅、五感を働かせての旅だけじゃなく、脳内で無限に広がる道をイマジネーションで追ってゆく旅…幾つもの旅の過程で、くるりはそのバンド名に反転適合してゆくように、芳醇に記名的で、生物たるヒトの温度や知性、グルーヴを、音楽を通じて、届けようとし、難しくならざる素材を多少、噛み砕いてアウトプットしているように見えながらも、そこに幾つもの先達の歴史へのオマージュ、フレーズを寄せ、気負わない言葉で爆ぜ合わせている力学原理が来る者拒まず、有機的に外へと拓かれているのがいいのだと思う。例えば、「ばらの花」、「ロックンロール」、「東京」…、多くの人に愛される曲の幾つかはもはや、街の中で仮想化された繊細ですこしブルーな自意識の束に向けた伝承歌として根付いている気がするのもそうで、生きている場は違えど、普遍的な迷い、揺らぎ、葛藤、割り切れなさ、それでも続く毎日に平等に感情が機能する訳はなく、「大きく、明朗で饒舌な歌」が誰もの心を救うばかりじゃない。

その、くるりの“クール”な感性がいつになく明瞭化されている9回目の京都音楽博覧会は、高野寛indigo la End、Cosmo Sheldrake、八代亜紀、Antonio Loureiro、ましまろ、そして、木村カエラの参加も正式に決まった。パッと目につくのは、indigo la End八代亜紀木村カエラだろうか。

indigo la End川谷絵音が率いるギターロック・バンド。ディーセントなメロディー・センスと艶やかな日本語詩で紡ぎあげる新しい時代のラブソングへの視程を持った逞しさがあり、フロントマンが別途、ゲスの極み乙女。というまたユニークなバンドを担っているというのも面白く、今現在のユース・ロック・カルチャーで欠かせない存在であるのはどちらとも間違いないといえる。

Indigo la End『雫に恋して』

八代亜紀。演歌のあの人でしょう、というイメージより、或る人は2012年の小西康陽プロデュースのスタンダード・ナンバーのジャズ・カバーアルバム『夜のアルバム』での再評価で知った、とか、いや、2013年のラウド・パークでの現れ方が、という方も居るだろう。元々、タモリが言うところの“ジャズな人”だったゆえに、パブリック・イメージより元来の奔放な八代亜紀に回帰しているような最近の流れでの京都音楽博覧会への初登場とは興味深い。過去でも、小田和正があの澄んだ声を京都タワーに引っ掛けるように響かせるだけで、会場の雰囲気は一変し、石川さゆりは「天城越え」でのぼりつめるように歌い上げるさまに京都の空に静謐に泪雨を誘っていたからして、八代亜紀の今回のステージも特別な何かになるだろうと思う。

八代亜紀『You’d Be So Nice To Come Home To』

木村カエラは2012年に出ており、そこでもくるりの「奇跡」を本当に美しい歌唱で披露し、自らの代表曲のひとつ「Butterfly」も鮮やかだった。また、モードも変わってきているだけに、どういったパフォーマンスをするのか、期待が募る。更に、高野寛といった大御所がサラッと入ってくるのがこの京都音博の醍醐味だろう。高野寛というアーティストが切り拓いてきた偉業を数え上げられないが、私的には純然とひねくれたマッドなポップ・マエストロとして2009年の『Rainbow Magic』前後の熱量の高さに魅かれてしまう。最後、日本勢のましまろ。真城めぐみ、真島正利からなるユニット。これは何も言うことはないだろう。きっと素晴らしいものを見せてくれると思う。

海外勢は、極端に言えば、メトロポリタンな二人で、Cosmo Sheldrake(コスモ・シェルドレイク)は若干25歳のロンドンをベースに多岐に活動しているが、サウンド・アート作家としての側面に強く感応できるものがある。今年のEP『Pelicans We』はパナマ運河やカナダの熱帯雨林などのフィールド・レコーディングを行ない、トイ・ポップ調にリリカルなものに昇華させた。Antonio Loureiro(アントニオ・ロウレイロ)は、ブラジルはサンパウロ出身。ミナスの気鋭。日本へも来日しながら、アート・リンゼイなどともライヴ共演するなど、多面的な可能性を持つマルチな才能を持つ。マルチアングルという意味では、昨年もアルゼンチンのトミ・レブレロから松尾芭蕉の侘び寂びが国境を越えて力強く聞こえてきたり、サム・リーの巧みな伝統楽器の使い方はまさに、そのとおりだった。マルチアングルで見通す海外勢の二人と、日本勢のクールネスが混じり合う場所が京都というのはとても分かりやすく、今年のラインナップは高い求心性を持つ気がする。

Cosmo Sheldrake『Tardigrade Song』

Antonio Loureiro『Lindeza』

4)

さて、数多のランキングをザッピングせずとも分かるとおり、日本への異国からの観光者数は増えている。
訪日客、年2000万人ペース 定番観光に満足せず :日本経済新聞
それは上記記事のように、また、規制緩和のみならず、LCCや簡易なパック、ネットを介したコスト・パフォーマンスのいいモデルなどが市井を刺激し、同時に、「国境を越える」ことは然程、難渋なことではないという意識を持った人が出てきた証左なのかもしれない。いつかのグローバリゼーションでは、どんな国のどんな場所でも、英語、クイーンズでもアメリカンでも一通り話せておくべきだという風潮があったものの、タブレット端末で明確に移置を指し示しながら、スロベキア語で大阪は天王寺あたりに行きたいという旅人の話を聞いた時、ようやく、狷介固陋な“べき論”もグローバリゼーションという大文字も細分化、分割化されてゆくような気がした身としては、京都がどこまで世界の中でエッジ化した観光都市なのかというと、首肯できにくい部分は正直、ある。観光施策は素晴らしいと思う。ホスピタリティーも日進月歩で上がり、多面的に間口が広くなるものの、携えてきた伝承性と新しい文法を噛み合わす際の成長痛といおうか、軋む音がそこここから聞こえてくるときがある。

5)

延々と続くような成長痛も或る時期を越えれば、馴染むようになる。馴染めば、保守化する。保守化することは悪いわけではないが、このたびの京都音楽博覧会はこれまでの京都音楽博覧会らしい色を深めつつ、凛然と新たな試みが要所で伺え、頼もしく、その通奏低音として聴こえてくる音風景が既に楽しみになる。京都を越えて、京都を内包して、秋の一場面を縁取り、どんな新しい言語に変換されるのだろうか、と。

称賛として、来し方が何よりもジャズな、ロック・バンドたるくるりが開くcool(head,but warm heart)なこれまでの歩みと更新を止揚するような9度目となる京都音楽博覧会に期待したい。