ASIAN KUNG-FU GENERATION「今を生きて」を巡って

あの日以降、意識が変わらなかった人はいないと思う。少し前の「セカイ/系」といわれたタームの逼迫が経済的な与件で押し迫られた00年代が簡易な形で10年代の景色が「世界そのもの」としてロールオーバーしてゆく様は少し辛くもあり、そこに金融経済、天災、紛争、一気に押し寄せる中で「生きること」そのものがもはや稀少であるという証左に言を俟たない。

僕自身は積極的にアクティヴィストとして何かをするというよりも、後方支援のような形を取りながら、いわゆるアーティストと呼ばれる方々の精力的な動きに背中を押されるものがあった。

ASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文氏もその一人で、弾き語りからTwitter、FUTURE TIMESなどでのステイトメント、バンド主催のイベントから音源のリリース、only in dreamsまでを跨ぎ、その動力源は何処にあるのか、というほど目まぐるしくタフに思考と動的体力を高めていった。

昨秋のくるり主催の京都音楽博覧会で後藤氏は弾き語りで「夜を越えて」という曲を歌った。他にも、様々な曲がある中での選択。

〈音楽はあまりに無力なんて常套句(クリシェ)に酔っても 世界を1mmでも動かすことは出来るだろうか 悲しみだけが強かにレンズに映るけど 焼き増すだけならフィルムに埋もれるだけだろう〉

という底の中から始まるリリック、ここがジ・エンドなのか、という自問自答。遠くの街の出来事に無関係でいられること。それでも、荒野と終わりからもう一度始めてみよう、という原曲は骨太なギターロックだが、そのときは声とシンプルなギターだけだったのか、歌詞が異様に耳に反響し、涙腺が緩んだ。

〈胸の想いが少し光って 星のない夜を温めた〉

この2年ほどで星のない夜が時おりは多くの人に訪れたと思う。それは俯いて見えなかっただけかもしれない、または、スモッグや雲で隠れていたのかもしれない、陰鬱なニュースにヴェールが包まれていたのかもしれない。でも、この前、随分と音信不通だった福島大学の知己から「元気でやってるよ。」と連絡が来て、思わず電話したら、「生きてこそ、だよね。」という話に終始した。彼は多くを語らなかったが、十二分にその背景は感じ取れた。

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僕は積極的にASIAN KUNG-FU GENERATIONのファンという訳ではなく、時差と年齢のラグが確実にある。オアシス、ウィーザーやファウンティンズ・オブ・ウェイン系譜のパワーポップイースタン・ユースナンバーガールを主軸の影響に受けた生硬な日本語とマイノリティ・サイドの痛みを昇華させる様はフェスで見るたび、そして、ユースやキッズにとっては靄がかった日常から逸れたハレだったのだとも思う。

2003年のファースト・フルアルバム『君繋ファイブエム』が並んでいた景色はよく想い出せる。音楽専門番組で「君という花」がパワースピンされていたのもあり、飢餓感と期待感と今や欠かせなくなった中村佑介氏のイラストレーション。音楽的な語彙が広いとは思えない中でのジェット・ラグ、当時、海外ではガレージロック・リヴァイヴァル、ロック×ダンスのアマルガムエレクトロニカIDM的な耳を尖らせるサウンドが芽吹いてきた中でのストレートなまでの愚直さ。そう、何故か彼らには微妙なラグが似合う。

プログレッシヴな「サイレン」と今でも人気曲の「ループ・アンド・ループ」というシングルを重ね、04年のセカンドの『ソルファ』でのブレイクスルー。同胞的に、日本ではエルレガーデンが一気にメインフィールドへ踊り出て、ストレイテナーがまさにシングルで「KILLER TUNE」という曲を出しながら、独自の磁場が出来ていた頃に2005年の彼らは主催のNANO MUGEN FES’05で場所は横浜アリーナに置き、アクトもエルレガーデンストレイテナーから海外からのギターロック・バンドのASHなど、これまで、と、これからを見渡していたものになっていた。

多くの代表曲があるが、その中でも個人的には2005年11月にリリースされたシングル「ブルートレイン」が興味深かった。彼らのこれまでのイメージとは少し違うブレイクビーツ的なドラムとシャープなアレンジメントが目立つ、シンガロングを促し、劇的に盛り上がるものではないが、ライヴでは映える。更に、〈剥き出しで走る夕 歪なレール上を転がるように 日々に潜む憂鬱 それすら消えて無くなってしまうまで 生きたい〉と、生きることそのものへの退転ともいえる想いが歌われて、今年にリリースされるシングルが「今を生きて」。「たい」から「」への時間までに要した彼らの軌跡描いているようで感慨深い。

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夜を越えて、「今を生きて」へ―

シャッフル・ビートの何だか初期の彼らの思わせるようなバウンシーな曲で、どことなく、開放感にも溢れている。2012年の『ランドマーク』でのどこか張り詰まった空気を解すような木漏れ日も感じる。この前に、UKに居たときにパブで流れていて圧倒的に心地良いのはオアシスやローゼズだったりした。もちろん、レディオヘッドやブロックパーティ、他のダンス・ナンバーも悪くなかったのだが、パブで夜を溶かすときには難しいことは置いておきたい。そんな夜は少数のためではなく、見えない大多数のために用意されているべきだと思うことが歳とともに増えたとき、例えば、この曲を聴きながら、飲むビールやおくる夜は楽しいのかもしれない、という気もした。YEAHという小気味よいリフレイン、コーラス、入ってくる日本語も「重さ」よりも日常的なフレーズも挟まれる。閉店後の店先、永遠、フィーリング、隣の駅…。夜を越えたら、今がある。その今を重ねていけば、何処かに辿り着く。「何処か」はジ・エンドかもしれなくても、まだそこから始められる時間は残っていると思う。

音楽に護られる日々がときに逸脱してしまいそうなとき、そこに「生活」が混じり合うような渚でもう一度、直せるものがあるならば、もう時差ボケしているときは過ぎたのだろう。

今を生きて(初回生産限定盤)(DVD付)

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