空き地になったあとに、

馴染みにしていました理髪店や書店が3月いっぱいで閉まるということで、最近は不義理をしていたのもあり、書店はともかく、理髪店では「より髪を切る」とかは出来ないものの、花とメッセージ・カードを添えました。

事情としては、近隣の大型モール内にある同種で多角的な店に流れた、というよくあるケースでただ、そのモールもこの1年ほどで随分と店の配置替えが行なわれているな、とも思っていたゆえに、こうしたカニバリズム的な撤退を既に見込んだ戦略設定のあとに待つのは「空き地」なのはわかっているゆえに、犇めき合う同種の店、それが相乗的に顧客を喰い合いながら、総合的にその地域の利益をあげてゆけばいい、そういうマーケティング意図は自身も絡んだことがありますし、ポスト化の中では「顧客志向」を逓減させ、セルフ、つまりUP TO YOUにすることでのサービス効果を狙っているところも多く、しかし、その背面では一層のホスピタリティ(おもてなし、と言いましょうか)が強くなっている―二分化を感じます。

いわゆる、高級なホテルのホスピタリティは何度か利用すれば、その宿泊客の嗜好やニーズまでを「含んだ」上で先回りしてくれます。例えば、私がコーヒーを飲めないとしましたら、部屋にはコーヒーがなく、紅茶や水がセットされていたり、と。また、有名な話ですが、そのホテルに備わっていないものでも要望を出せば、近接の場所から仕入れてくる、そんなこともあります。それでも、そういうホテルに泊まることは限定された層で、となりますと、「サービス」という無償的なものに膨大な付加価値が付いてきている時代が極まってきたのかな、とも思いますが、無論、二律背反です。

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新幹線のグリーン車はゆったりと座れますが、「移動」ということだけを軸に置けば、決して安くない付加料金です。ただ、その「移動」で辛苦をしたくないという想いを1万円などに換える―そこでの倒錯は、その1万円はしかし、貨幣経済下では同じ「1万円」です。何を当たり前を、となりますが、唯物的、等価価値的な条件が既に持ち崩れているとしたら、その「1万円」で贅沢な食事もデートも色々と出来るとして、「そこ」を具象的ではない個の身体性へ還流するとしたならば、“見えない商売”が今、とても増えているのも道理なのかもしれません。

エステ、マッサージも数年前から一気に増え、私も時おり利用しますが、決して「安くはありません」。それでも、疲労と引き換えにお金を払う訳で、またそこでも前述しましたグリーン車での辛苦と同じく、疲労という抽象的な代価が出てきます。更には、健康を巡るサプリメント業界の賑わい。

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進めていきますと、人間としてダイレクトに感じる快・不快という欲動に多くのマーケットが浮上し、パッシヴ(間接的)なものには迂回される向きがあるということでもあります。日々の生活の中で通信費、食費、交際費などは欠かせない、でも、文化投資、という言葉は変ですが、本は中古落ちでもいいかな、とか、CDはレンタルでいいかな、寧ろ衣食住に必要ないものに割いている余裕はないから、それだったら、毎月7,000円のスポーツ・ジムのためのお金を出そうか、など当たり前に選好されます。

選好される条件には、所得幅もあるでしょうが、明らかに環境条件も含意し、その環境条件は自分が物心ついたときから音楽は自由に溢れていた、ネット喫茶で何時間も漫画を読み漁れる、とフラットに話す知り合いの10代や20代の子たちの強さと速さも感じます。

彼らは咀嚼能力もリテラシー能力も、同時に、知らないことを切り落とす俊敏的な知的動性がありますし、正直、敵わないな、と想うケースもあります。ただ、教養や知識はWikipediagoogleでは身に付きません。セルフ・ディシプリンや相関性によって育まれてゆく訳で、「情報の非対称性」はどんどん峻厳になっており、知っている人はより知ってゆける場所に行き、そうではない人は阻害されてしまいます。

社会はそれでも、双方を包摂していたはずなのですが、明らかな断層が出てきたのを感じますとともに、功利、拝金主義のイロニカルな台頭が指し示すのは文化的産物への距離感かもしれません。

役に立たないことにお金を割くことで生まれる「時間」もあります。その「時間」がいつか役に立つとしても、その「いつか」が見えないなら、即応にBETしよう、自分のためにインスタントに処理しよう―ショートカット・キーのように結びついた回路の中で、独特の味わいを持ちました冒頭のような理髪店や書店はシャッターを下ろしていくのでしょう。その店主はどうされるのか、また、近くのモールの理髪店や書店は継続価値の耐度を持ち続けるのか、考えるたびに悩ましくもなります。