BLUR『The Magic Whip』―遊びの空間性
2012年のロンドン・オリンピックは世界中継もされ、多くの人が観たが、競技そのもの以外に、開会式の豪奢な演出などから金満主義という見方もあれば、パフォーマンスの高さを称賛する声もあった中、その閉幕イヴェントを担った或る意味でUKを代表するアクトのひとつ、ブラーのメンバー、デーモン・アルバーンは“オリンピック”という記号を通じた高度資本主義の塊に明らかな嫌悪感を示し、そこを通じて集う人たちのためにライヴをするんだ、という旨を述べていたが、結果、ハイド・パークの約8万人ものオーディエンスと分かち合った煌びやかな高揚感は多様な国旗群に混じった、英国のどこか旧態的なヘゲモニー性のイロニカルな補強のための残映が霞みもした。「London Loves」、「Jubilee」、「Sunday Sunday」といった『Modern Life Is Rubbish』、『Parklife』期の曲群の配置の仕方もそうだったが、ブラーが体現する一部はやはり、いまだクール・ブリタニアの残映が霞むのもやむを得ないことなのかもしれない。
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そうは言えど、グレアム・コクソンも完全に復帰参加して、オリジナル・メンバー作としてのアルバムでは約16年振りとなる『The Magic Whip』のジャケットは、チャイナタウンで見受けられる原色の電飾をモティーフにしたけばけばしさでラフに描かれており、クールとは程遠い。
- アーティスト: Blur
- 出版社/メーカー: Parlophone (Wea)
- 発売日: 2015/04/28
- メディア: CD
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しかし、LEDが発達し、コストが安く、淡く微妙な色合い、温度まで調整できるようになった瀬でも、中国やアジア諸国、新興国で見受けられる、あのギラギラしたネオンにはどうしようもない危険で獰猛な生命力を感じさえするのとともに、以前、感じたものと違った個人的な安堵も得るようになったのは、スタイリッシュに機能性を増してゆく瀬にどぎつさは徒になってしまうからで、そういったネオンのままの過剰さより、効率的な過剰さが好まれる中で、ブラーのこの新作はジャケット・デザインを隠れ蓑に、まさに曖昧模糊(ブラー)なバランスの良さとソツのなさで巧みに遊び、ときに聴き手を緩く挑発するようで、興味深い。リード曲として発表された「Go Out」はローファイで力の抜けたギター・ロックで、MVとともに、意気込みより斜からのパースペクティヴが持ち込まれたもので、或る意味、キャリアと評価が十二分にあるバンドの遊びとも捉えられるかもしれない。50代に近くなった彼ら、または近年のデーモンの誠実な枯れ方、成熟は音楽的な幅でいえば魅惑を増していたともいえ、特に2014年の『Everyday Robots』の細やかな音響工作と小声のセンチメントは、ドノヴァン、ジミー・キャンベル辺りの英国SSWのメロウネス、ボン・イヴェール以降のUSインディーの波を受けながら、漣のような電子音の肌理にはポスト・ミニマル・ミュージックとしての美しさを帯び、内省的ながら、魅惑的な内容に帰一していた。
- アーティスト: Damon Albarn
- 出版社/メーカー: Parlophone (Wea)
- 発売日: 2014/04/30
- メディア: CD
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『The Magic Whip』でも、ソロ作を血脈を継いだ、ミニマルで繊細な揺らぎが美しい曲も入っている。「New World Towers」、「Mirrorball」などは特にそうだろうか。
しかし、周知の人も多いだろうが、ブラーは膨大なセッションを行ない、そこから曲を練ってゆくということを過去から行なってきた。だから、アルバムごとにデモ曲のみならず、実験的なままで投げたような曲まで多数存在し、それらはシングルのBサイドやコンピレーション、スペシャル・エディションなどのたびに随時リリースされてきた。もちろん、判断としてアルバムとしての総体を纏める作業を行なっている訳で、1曲としての精度を高めるというより、セッションの度合が高まってきた1997年の『無題』以降は、ひとつのモダン・アートを眺めるような様相も孕んでいたのは確かで、いまだにライヴでのハイライトになるゴスペル「Tender」を冒頭に置いた1999年の『13』などはアルバムとしては相当、サイケデリックで支離滅裂といえなくもない。今回も、2013年の春のツアーの合間の休日を使って寄った香港の九龍でのレコーディングが元になっており、“精緻に詰める”というより、適度にラフに遊びを入れながら、あくまでブラー(という)、バンドとしての音にしようとしている、そんなところが強い。それでも、単曲で捉えるより、アルバムとしての纏まり、視角はいつになく良いと思う。「Lonesome Street」のリズムのハネ方やギターにはグレアムを感じるだろうし、毎作お馴染みといえるパンク・ソング「I Broadcast」には、彼ら四人の楽しそうに演奏している姿が映るだろう。個人的には、「Out Of The Time」に通じながら、セルジュ・ゲンスブール的な蠱惑性を持つ「My Terracotta Heart」にデーモンの黄昏れた色気と、今のブラーのアンサンブルの妙を特に感じた。そこで歌われる過ぎ去りし光景、感情。NMEのインタビューでは、グレアムが、デーモンとの長い関係性についての曲になるとは思わなかった、と述べているとおり、彼ら二人を示唆するような切ないフレーズが要所に巡る。
《I’m running out heart today》
《If something broke inside me,Cause at the moment I'm lost, a feeling that I don't know》
また、「Ghost Ship」は軽く体を揺らしてくれる80年代的なディスコ・サウンドで、そこに《Hong-Kong》という単語も小気味よく入り、香港というあのどうにもカオティックな街の風景が浮かんでくる。「Pyongyang」については、タイトル通り、デーモンが北朝鮮の平壌を訪れたイメージを軸に、あくまで簡素にして、どこか物悲しさを醸している。その都市の内部に居続ける人たちの観る現実と外部から観た感覚は、噛み合うことはない。諍いが起きないように願おうにも、ほんのひとつの国境を越えるだけで、自分の培っていた判断、価値観が全く無化するなんてことはある。でも、それは逆も然りで、そこから「ここ」に来たら、どういうメカニズムで成り立っているのか、幾ら生活し、微に入り細を穿ち、馴染んでいっても、わからないだろう。「Pyongyang」を通じて、決して政治的なステイトメントを歌おうとしている訳ではなく、ぼんやりと不穏で、どこか彼岸的で安心する音像のなかで、聴き手の想像枠を広げる、そんな意味では、今作のブラーは、真摯たる大人としての節度がいつになく散見もされる。
今後の彼らのライヴ―特にワイト島フェスティバルでは楽しみだが―シンガロング、ハンドクラップを寄せるだろう「Ong Ong」といい、改めてアルバムで聴くリード曲の「Go Out」や、ここまで言及してきた“遊び”という語句には、もう少し正確な継句がいるのかもしれない。
ホイジンガの「遊び」の概念まで遡らずとも、遊びのモデルがメタ化する際の社会、共同体と呼ばれる何かが先に現今、編集、偏向されてしまっているとしたならば、という仮題を置くとして、そもそも、“先に何事も作り上げるより、遊び始めることが人間の文化的所作だったのではないか“と立ち返れば、『The Magic Whip』に通底する遊びの感覚(デ・ジャヴ)、同時に雨を降らすわけではないびっしりと纏わりついた鱗雲のように晴れない空のような(まるで冬のロンドンのような)ムード、耳に残るどこかチープなフレーズの反復とサイケデリア、程よく確保された「空間性」まで合点がゆく流れがみえてくる。切実に息苦しくない代わりに、鮮やかなな夢を見させてくれるなく、という―そこがブラー(の新作)を聴く2015年という位相なのだとも思いもするが、彼らがこうしたキャリアを重ねて、こうした作品をリリースするということ自体が興味深い。