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ポスト・パンク由来である、ネオアコやアノラックやソフト・ロックが実は一番REBELな音楽かもしれない、とときに思う僕は、AZTEC CAMERA、EBTG、PALE FOUNTAINSやHOUSE MARTINSやORANGE JUICEなどの尖りを「体感」していたからかもしれない。パンクの直情径行やヘビーロックの倦んだインプロを軽く避わすように軽やかに爪弾かれるギター、カッティング、声量のないボーカリゼーション、複層的なリリックに、かろうじて繊細な青年が『構造と力』とかと同じく傍らに持ちえる事が出来るハイソサエティックで冗句に塗れた戯れで、90年代に入ってバブルが弾け、「負債」が周囲に撒き散らされだした頃、少しずつ重厚な表現が累積していく中でも、参照点として時おりはラフ・トレード、クレプスキュール界隈に戻って、色々と作戦を練り直してみることがある。また、サバービアには地図がある場合もいまだに看過できない。

スキゾや多くの横文字と予め超越されるための「近代(modern)」。そして、「近代、以後」を生きざるを得なかった70年代後半生まれの僕(たち、”たち”という言葉は基本、僕<以外>でもある。)は、とても倦んだ顔の滔滔とした饒舌者と、黙して語らずの上部層と無邪気であっけらかんとした層に挟まれて、「言葉を失ってしまう」結果となったのは多くは語るまでもなく、今、時差ボケのようにシンクしてきている。先達のトリックスターの悲劇の回収先は知らなくても。時代責任や自己責任で昇華してしまう瀬など容易いが、結果的に拠る辺はない、という立脚点から演繹する恋と、マシンガン。もちろん、弾は込めずに。

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「人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言うことにしよう。人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで探し当てているものだ。」

(太宰治パンドラの箱』)

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でも、今、この目の前に霞んでいる景色はとても切なさに近い何か、でもある。経済的与件(予見)に絡まる心理的窮状の限定条件と、必要留保条件としての逆説。

旧聞になるが、2007年5月にパリで行われたOECD(経済協力開発機構)閣僚理事会は、OECD加盟国でデータの取れる19カ国中で、16国が過去12年の間に所得格差が拡大していることを指摘した。また、ILO(国際労働機関)は2007年の「世界雇用報告」で、世界労働者のうち5人に2人がワーキングプアになっている、と示している。無論、10年代になり、この数値はより極まっているのも自明だろう。

そこでの「トリクルダウン効果」とは無意味だとも思う。富裕層やニューリッチ層の株式投資ゲームで企業収益の大幅な拡大は何に一番依拠するか、というと、人件費抑制による部分が大きい訳で、また低賃金労働者はインフレ抑止をもたらす役割としてマクロ面での「経済成長」を支える。解消しない溝はほのかに集体的深層心理を100マイルの速度で読み飛ばしていく。

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軽やかにペンを持ち、知性を絞り、撃つべき対象を見定めては確かめる。それがとても、難渋なのは理解っているけれども、もう少し「確信」を感じたいというのはある。周りのインテリゲンツァでもアーティストでもクリエイターでも、繋がり/拡散/閉口、それぞれが具現化しているからこそ。口を噤むのも前衛、退却を向かうのも真ん中を進むのもいいものの、きっと無力感がひたひたと後ろから寄ってくる時代を射抜くための「何か」への視角。

その「何か」を待ってもいるし、
自身がその「何か」に巻き込まれつつある予感もずっと感じている。

Pacific Street

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