星野源「知らない」

星野源というアーティストを考えると、時おり人間の深い業を覗き込むような気になる。『ばかのうた』での牧歌性に隠された冷ややかな視点と、醒めた声、そこから「くだらないの中に」へと向かう、日常へと還る中で研ぎ澄まされる服毒。彼の描く日常は誰もの「日常」ではなく、倦怠や諦念に絡め取られながら、feigning deathから生たるものに許しを付与する。

《みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ》

「日常」

みんなが嫌うものが好きでも構わない。ただ、それを公言するには覚悟が要る。何故ならば、みんなとは視えないものだからで、阿部謹也氏が言っていたように、”Society”は日本語訳の”社会”に不適合なように、大きな「世間」という言葉を援用したとき、世間に二分法が用いられることになった。「世間が許さないから。」、「世間様にご迷惑が掛かるから。」の世間とはその人の或る、固定観念と良識に準拠しており、その個たる生き方から作り上げられる偶像であり、その偶像が縛りつけていた限り、民度は安心保持されていたのだと思う。そう、上を見上げなくても、下を見下さなくても、その場所で「世間」はあったからだ。今、「世間」は完全に仮想的なものになっていると思う。仕方がなく、巨大な社会共通言語が喪われたら、ラングはパロールと呼応しなくなる。その「花」は「HANA」ならば、描く「HANA」は「花」に収斂し得ない。CMタイアップ、ストリングスを豪奢に使い、ポップソングの粋を華やかになぞった「夢の外へ」もユーフォリアの行間に彼特有の視点が介在する。

《自分だけ見えるものと 大勢で見える世界の どちらが嘘か選べばいい 君はどちらをゆく 僕は真ん中をゆく》
(「夢の外へ」)

ここでも、出てくる、自分対大勢。大勢は「日常」で出てきた、みんな、と同義と言ってもいいだろう。そこで、やはり、彼はそのどちらかが嘘でも、自分は真ん中をゆく、とmarginal man、複数の系の境界に足を置く。複数の「系」におさまってしまう際のリゾーム、構造は自己/非自己の精査で容易に解析できる。多田富雄氏の『免疫の意味論』を想い出してみよう。スーパーシステムに関しては大胆すぎる仮説だが、生命そのものに最適という発想はないこと。人間は「人間になろう」とすること。だから、社会が人間を「人間にさせてゆく」。その社会が前述の世間と近似し、みんな、大勢、とシンクする。では、意味だけが必要なのか、無意味に捨てられるデータや遺伝子は本当に「無意味」なのか。おそらく、それは違うと思う。そんなに、意味/非・意味で分かたれるほど、簡単に世の中は出来ていない。

***

彼の今年の精力的な活動の締めになるだろう「知らない」。
やはりといおうか、ここでも、贅沢にストリングスが入り、ダイナミックに盛り上がる汎的に受けやすい大きいバラッドになっている。ただし、MVでも「夢の外へ」のMVのエンディング・ロールを前に、ソファーで疲れたように寝て、起きる彼が居る。まるで「夢の外へ」での自分さえも対象化するように、倦怠と孤独が染みついたシーン、基本、部屋での他愛のないカットが続く。しかし、明け方のまだ仄暗い朝の外へ着替えて、出かけ、コンビニに寄ってからの相生橋へ向かってからの彼は「部屋を抜けている」。

《終わり その先に 長く長くつづく 知らない景色
さよならはまだ言わないで 物語つづく
絶望のそばで 温もりが消えるその時まで》

(「知らない」)

部屋を出たあとでの、知らない景色、絶望のそば、温もりが消えるその時―
ここで、みんな、世間は「景色」に変わっているのかもしれない。その「景色」を知らない、と言うこと。そんな「知らない」の救いようのなさを配置替えするように、2曲目「ダンサー」は軽やかに、孤独を舞わせる曲に、3曲目の「季節」はこれまでのような彼のリリシズムが堪能できるシンプルで、繊細な佳曲になっている。

付属するDVDにしても、コメンタリーから多くの映像から過剰なサービス精神に溢れており、日比谷野外音楽堂のライヴではナンバーガールの「透明少女」のカバーをしたり、彼はどこかで「終わり」を完全に知ったことのある「彼岸の人」なのだと思う。彼岸からだから、優しく世を包み込むように、道化を演じる。永久凍土下の孤独を基盤に。その凍土はみんなに拓けることで溶かされてゆく、彼は「知らない」の中でワンフレーズだけ以下のことを述べる。つまり、そういうことなのだと思う。

《想いはずっと残ること
知っている 二度と逢えなくても》

(「知らない」)

知らない[初回限定盤]

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