星野源 ―ひとつになれない世界で、差異を生きること

今は亡きライター、編集者の川勝正幸氏が2010年に発売された彼のソロ・ファースト・アルバム『ばかのうた』のブックレットに寄せました取材、文章があります。そこで出てくる印象的なものは、ジャズ・ピアノがある家で、しかし、ビル・エヴァンスのようなモダン・ジャズの退屈さに倦み、それより「オバQ音頭」に魅かれたこと、中学生の頃の深夜ラジオで目覚めた笑いの面白さ、小劇場への興味、細野晴臣HOSONO HOUSE』に夢中になった高校時代、00年のSAKEROCKの結成、30歳を前にして歌い始める彼の在り方。そして、最後に、こういった文章で締め括られます。

星野 源が、SAKEROCKサケロックオールスターズなどバンドという場ではできなかった、あるいは、作らなかった歌の数々。『ばかのうた』の意味や価値は、多くの名盤がそうであるように、作った本人の意思を超えて、現在の、そして、未来のリスナーたちによって徐々に膨らんでいくのではないだろうか。

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筆者が彼のライヴを初めて観ましたのは、大阪の服部緑地野外音楽堂で催行されましたSPRINGFIELDS’10という、まったりとした雰囲気の大人向けのイベントで、そのときのラインナップは細野晴臣矢野顕子UA、そして彼。フォーキーに、地味ながら味わいのある歌声はそのときはあまり印象に残らなく、ただ、「星野源」という名前がそれまでの自身の中ではあまり明確でなかったものが少し輪郭を結んだ―そんな感覚も浮かびました。

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世の中は功利、基本、多数決で出来ていると極言してもいいかもしれません。あまりこういうことをいいますと、悪く捉えないで欲しいのですが、勝たないと発言できませんし、努力が成功することはほぼ稀で、「これでいいや」の連なりで歳を重ねてゆくのも多く、それも私はまったく良いと思います。ただ、「夢は絶対、叶うよ。」というのは叮嚀に慎重に扱うべき言葉で、いつかの小学校の時期、みんなで歌う曲でKANの「愛は勝つ」が多数決で定められた隣に、ザ・ブルーハーツの「情熱の薔薇」がありました。みんなと同じでそれでいい、みんなに合わせてゆく必要性は日本では尊ばれます。そこで、星野源は『ばかのうた』の冒頭曲「ばらばら」でこう歌います。

世界は ひとつじゃない ああ そのまま ばらばらのまま 世界は ひとつになれない そのまま どこかいこう

ひとつになれない世界。その中でのばらばらなままのそれぞれ生きる当たり前の暮らしの断片を私情を込めながら、書いたところがあります。言語はひとつじゃなく、価値観はひとつじゃなく、何もかもひとつじゃなく、人間はそれぞれに全く違う場所で肩をときにぶつけ合い、席を譲り合いながらも、生きます。そして、また、どこかに行くとも言えます。他愛のないようで、掛け替えのない日常を彼岸側から見つめるように星野源はずっと多数決じゃないこと、みんなと違っていても別にそれでもいいんだよ、という“当然”を歌ってきたように思えます。

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音楽メディアCOOKIE SCENEで彼の2011年3月のファースト・シングル「くだらないの中に」について書きました折、こういうことに触れています。WIRED VISIONの2010年11月30日の記事で、情報の中毒性と既知の事実への新たな知の好奇心のシステムでは、ワシントン州立大学神経科学者JAAK PANKSEPP氏の「ドーパミン系の予期せぬものを見出したり、新しいものを期待したりすることで活性化される」という言に沿うならば、毎日の大量の情報の摂取とは健全なる「報酬」のメカニズムを含意するかもしれないこと。

しかし、同時に人間の情報処理能力や記憶のキャパシティは有限リソースであり、好奇心の射程も「しれている」のではないか、という文脈から「知らないことに関して、知らない」という姿勢を造作もなく、人間は取ることが出来るのとともに、自分の中でインストール済みの情報や知識を反復する為に、その対象物に何度もアクセスして「再確認」してみることも多くなるというのは当然になってくるのかもしれないこと。ゆえに、昨日、雑踏ですれ違った人の表情を想い出そうとしますよりも、自分の中のミーム、規定知で仕切られました情報群内で制限された報酬を得る行動で満足する瀬を更新というのか、後進というのか、人それぞれだとしましても、「日常は、退屈に溢れている」と降りてしまうには、確認出来ないことが多すぎるのではないか、という提議をしました。そこで、「くだらないの中に」では、平熱のその、内在された視点の“箱庭”で暮らすのは、彼が当初に設置した登場人物ではない「君や僕」かもしれないところに意味があり、此岸の「君や僕」は彼の唄う彼岸の「君や僕」に近付こうとするために、自らの他愛のない日常を引き寄せる、行為性を深める要素もあった気がしました。

「くだらないの中に」での登場人物も、相変わらず「君と僕」で、「魔法」や「希望」なんて大文字の言葉に魅かれたりしながらも、結局はお互いの髪の匂いを嗅ぎ合ったり、首筋の匂いがパンのようですごいな、と絡まり合うだけで蒸発してゆく"湯気"のような景色に溶け込んでしまう儚さとありふれた風景が縁取られています。

ここがひとつの「分岐」になったといえるでしょうか、その後、何度も記すまでもない彼とはべつに、“ひとつじゃない世界“も激動を極めますなか、セカンド・アルバム『エピソード』という手堅く成長しました作品を出しながら、音楽面での認知性を巷間にも決定的にしたのはCMタイアップがあったとはいいましても、ストリングスの華やかさがユーフォリアを招くポップ・ソングの2012年7月の「夢の外へ」になると言えます。拓かれた曲の中で、決意表明のように、繰り返すように愈よマスに向けて個々の差異の正しさを投げかけます。

自分だけ見えるものと 大勢で見える世界の どちらが嘘か選べばいい
君はどちらをゆく 僕は真ん中をゆく
(「夢の外へ」)

みんなが嫌うものが好きでも構わない、ただ、それを公言するには覚悟が要ります。何故ならば、「みんな」とはあって視えないものだからで、学者の阿部謹也が言っていましたように、”Society”は日本語訳の”社会”に不適合なように、大きな「世間」という言葉を援用しましたとき、世間に“二分法”が無理やり当てはめられました。「世間が許さないから。」、「世間様にご迷惑が掛かるから。」の“世間”とはその人の或る、固定観念と良識に準拠しており、その個たる生き方から作り上げられる偶像であり、その偶像が縛りつけていた限り、民度は安心保持されていたのだと今こそ思います。そう、上を見上げなくても、下を見下さなくても、その場所で「世間」はあったからです。今、「世間」や「世論」とは完全に仮想的なものになっていると感じている人は多いのではないでしょうか。巨大な社会共通言語が喪われましたら、ラングはパロールと呼応しなくなってしまい、その「夢」は「YUME」ならば、描く「YUME」は「夢」に収斂し得なくなります。

「夢の外へ」でも出てきますが、自分・対・大勢。

大勢は「日常」で出てきました、みんな、と同義と言ってもいいでしょう。そこで、やはり、彼はそのどちらかが嘘でも、自分は真ん中をゆく、と複数の系の境界に足を置きます。複数の「系」におさまってしまう際のリゾーム、構造は自己/非自己の精査で容易に解析できる可能性があります。免疫学者たる故・多田富雄の『免疫の意味論』での、スーパーシステムに関しては大胆すぎる仮説ですが、命そのものに最適という発想はないと示唆しています。人間は「人間になろう」とすること。だから、社会が人間を「人間にさせてゆく」。

その社会が前述の世間と近似し、みんな、大勢、とシンクします。では、「意味」のみが必要なのか、無意味に捨てられるデータや遺伝子は本当に「無意味」なのでしょうか。おそらく、それは違うと私は思います。そんなに、意味/非・意味で分かたれるほど、簡単に世の中は出来ていないからです。

ひとつになれない世界とはつまり、そういう意味でもあります。

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その2012年の活動の締めになり、彼の病気とともに意味深長にはからずもなってしまいました「知らない」。ここでも、贅沢にストリングスが入り、ダイナミックに盛り上がる汎的に受けやすい大きいバラッドになっています。ただし、MVでも「夢の外へ」のMVのエンディング・ロールを前に、ソファーで疲れたように寝て、起きる彼が凛凛しく在ります。まるで「夢の外へ」での自分さえも対象化するように、倦怠と孤独が染みついたシーン、基本、部屋での他愛のないカット。

しかし、明け方のまだ仄暗い朝の外へ着替えて、出かけ、コンビニに寄ってからの相生橋へ向かってからの彼は「部屋を抜けています」。箱庭を抜けて、外へ、その外は夢の外でもあるかもしれません。

終わり その先に 長く長くつづく 知らない景色 さよならはまだ言わないで 物語つづく 絶望のそばで 温もりが消えるその時まで
(」知らない」)

部屋を出たあとでの、なぜか、知らない景色、絶望のそば、温もりが消えるそのとき―ここでのみんな、世間は「風景」に変わっているような想いに駆られます。その「風景」を知らない、と言いきる覚悟。そんな「知らない」の救いようのなさを配置替えするように、ワンフレーズだけ言及します。

想いはずっと残ること 知っている 二度と逢えなくても

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いつも窓の外の 憧れを眺めて 希望に似た花が 
女のように笑うさまに 手を伸ばした
(「地獄でなぜ悪い

一度、病気で倒れ、復帰しての『Stranger』というアルバムに周囲ほど自身が乗ることが出来なかったのは少しサウンド以外もデコラティヴになりすぎてしまい、彼のそのままの「声」(本音と建前のはざまを行くのが彼の良さでもあったと思うゆえに)が聴き難くなってしまったところもあります。無論、悪い作品という訳ではなく、「夢の外へ」以降のストリングスが絡み、豪奢になってゆく汎的なポップ・ソングとして拓けた様の延長線にあった中での覚悟の差異に準拠します。

基本は彼岸性と現実への諦念を持ちながら、それでも、日常ってこんなもので花は美しく、リビドーに突き動かされる、というテーゼを歌うときに滲み出る抒情に魅せられていたのかもしれず、巷間の要請が膨大に“星野源”という存在を求め出したころに、サービス精神過剰でワーカホリックな彼の意思が不可思議にも合致した結果の産物が『Stranger』だと思えます。だから、いわゆる、過去でのHouse Ver.ともいえる2分ほどのSecret Trackが最後に密やかに入っているところに切なくもなりました。

何処に居ても 一人だとさ それでも 次の扉を暖かい未来を信じて

ただし、その後の「ギャグ」は毀誉褒貶ありましょうが、必然的にともいえます、ホンキートンク調のピアノが心地良い軽快な曲で、動かされるものがありました。

その後の経過観察による再びの活動休止があり、その病床で書き綴られたという「地獄でなぜ悪い」はセッション的に雪崩れるサウンドの中で、印象深い歌詞が刺さるものでした。

なお、弦、サックス、トランペットなどもフィーチャーされながら、伊藤大地(Drums)、伊賀航(Bass)、長岡亮介(Guitar)、スガダイロー(Piano)という布陣からして、4分以内でコンパクトに収まっていますが、それ以上のテイクとカオスがあったのだと思われます。フォーキーに爪弾く素朴な叙情から「夢の外へ」以降期のハレと重みの双極を、一区切りを纏め上げるにはこれくらいの獰猛さで霧消するくらいが丁度いいのかもしれず、実際に本シングルに収められているカラオケ・ヴァージョンだけを聴きますと、フリージャズのような野蛮性が“うた”を放棄しているとさえ感応します。そこに、彼の病室における極限の想いが投影されます。病室、夜が心を蝕むこと、いつも夢の中で痛みを逃げること、窓の外の標識、外/内の未分化される隔離状態の中で彼は「嘘でなにが悪いか」と問いかけます。自身へ向けて、世に向けて。

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基本、暗黙の社会規律とはある。「当たり前」といえるような、日々生活をおくる中で、老人に席を譲ることや、公然で傍若無人になるな、言葉遣い、究極は誰かを殺めることまで細部に渡り、それが人間をかろうじて共同生活下で多くの縛りによって、自由に往来させている訳ですが、社会側の装置として今、「個」は阻害されている要因も確実にあります。例えば、居場所を示すツイートを捕捉する機関があったり、個人情報さえもう銀行に預けないといけない時代になっているなか、かつては暗黙で許され得なかった倫理観や道徳性が簡単に破られ、他人への距離感がいびつになってしまう当世で、それをさらに面白がるように、すぐに不道徳は伝播し、自由な現代的な性格と過剰に拮抗します。例え、嘘でも―。

星野源はそれでも、そこで、こう綴ります。

だ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

同名映画の主題歌といえども、また、自身の病気もあれども、「地獄」とはとても記号的な何かが胸に迫ります。“生き地獄”みたいな言葉もありますものの、生きるために費やす時間や念慮は地の底を這うようなしんどさを憶えることもそれぞれであるでしょう。経済的与件が心理的困窮にダイレクトに繋がるという事柄もありますが、空気感として“その先がない”という社会環境の条件性に帰っていきます。星野源が病床でどんな想いで書いたか、察するに余りありますが、開き直りでもない“真っ当”な感覚のまま、最後まで突き抜けます。

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような 「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

「どこか」へいこう、から、「どこまでも」。

それが音を立てて崩れるこの3年ほど。彼のキャリアと世の中は不思議と共振していたかもしれません。再復帰、活動を始めてゆきます彼の所在には心配より頼もしさも寄せます。かつて、彼はこんな決意を示していたからです。

叫ぶ狂う音が明日を連れてきて 奈落の底から化けた僕をせり上げてく
(「化け物」)

明日とは昨日の続きのこの、今で、底、ささやかな日常から見上げる空は澄んでいるはずだと希い、2014年がきっと明るく佳い年でありますように。

星野源HP】
http://www.hoshinogen.com/

ばかのうた [Analog]

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