un-less than zero,

先日、久し振りに大阪城公園を歩いていたら、焼き肉の良い匂いがして、その方向の野外音楽堂では、コリアン・フェスティバルをやっていた。そして、すれ違う人たちは日本人よりも韓国の方、中国、台湾の方が圧倒的に多かった。みんな、self shot用の機器を備え、即座にinstagramなどにあげていて、同時に羽振りよく露店で現金で焼き鳥やビールをどんどん買っていた。京都の老舗でも、お金が入らないと何もかも成立しないので、一見さんお断りのような看板を下げるところが増え、海外からのツアー客を相手にした、お茶屋体験ができるようになっている。メニューや標記に英語、中国語、韓国語などが併記されているのは当たり前になりつつ、百貨店ではそれぞれの言語担当者が居たりして、凄まじい勢いで、人種の坩堝として日本の景色が変わっている―と言っても、観光都市、工場が集中している地方都市に限定された形で、ただの地方都市はじわじわと消滅を待つか、いつかのニュータウンのひび割れを残したまま、見事になにもなくなってゆく。

***

国税庁が今年9月に発表した「民間給与実態統計調査」では、2013年における年間給与所得100万円以下の層が前年比7%増えていたのと比して、2,500万円以上の層が分厚さを増し、いわゆる、中間層の持ち崩れが見られるような事象があり、そこでは資本主義で起こり得るトリクルダウン効果の是非も問われた。

民間給与実態統計調査
http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2013/minkan.htm

所得差をはかる直近、2011年のジニ係数も0.5536と過去最大になり、昨今ではアベノミクスが”ムードとして”の景気を演出している風にも捉えられる向きもある。背景的に、株を見れば、投資家たちは「良い機が来ている」と言うし、明らかにサラリーマンの生涯賃金を越える、桁の違うマンションや介護付きの施設も「売切御礼」の言葉が並び、実際に有効求人倍率はあがっている。

ただ、仕事を選ばなければ、いくらでも仕事がある―というのは詭弁で、人材不足の実情は代替人材の容易確保の根脈とつながってくる。正規社員、永続雇用という形は表層的になりながら、周到に、限定正社員、任期付き、契約の題目の下に、切り崩れ、社会保障面だけでなく、年功序列型から曖昧な成果主義へのスライドも始まってきている。年功序列構造に対して是非あるが、その「構造」に労働意欲、維持される何かもあり、「働かないおじさん」などの特集の裏で、既得性のある意味での耐性もないと、労働は成り立たない。

会社、組織に入れば、そこの規律があり、その規律の中で出世や意欲を保持し、対価として賃金を貰い、生活をはぐくんでゆく“暗黙”によって支えられてきた何かを急に変えるのは“成長痛”では間に合わないところはあるが同時に、組織単体で今ははかれないのは「内部」が混線しているからであり、寧ろ内向き化(まずは、これまでの既存の利益の確保)の気配もある日本型経営に強引に外部としてのグローバル化の視角を入れても、そう簡単に適応できる組織、人ばかりではない。変化は好機、ピンチはチャンスとの言も一理あるが、急に、一部の社内文書が英語になって、研修を受けさせられ、という話を知己から見聞きすると、TPPの懸念であった人材の流動性は既に激しくなっているのかもしれず、「これだけ働いていても、より良くなる実感がない。」というのは”所属する場所が抑うつ状態になっている”ともいえる。三年先のみならず、今、自身が関わっているプロジェクトや事業が何かに繋がってゆくことがわかれば、多少の「無理」はきく。しかしながら、急にプロジェクト自体が消滅したり、下方修正されたりすると、不安側に心理は傾ぐ。生きるために働いているようで、働いていることで生きているという倒錯もあり、ただ、心身を壊すなりして、戦線を離脱すると、サルベージされるネットは思っている以上にない。

***

働き方/生き方を変えよう、という啓蒙書が売れ、そのままの自分で、多くを望まず、というスタイルへの導線引きもよく見受けられる。無論、ストレスをためず、自分、自分の家族、もしくは最低限の範囲を守って生きていけたら、越したことはないが、当たり前に平易なものではなく、親の介護から自身の子供の教育投資の問題、更に、配偶者控除まで、これまで試算していたものを再考させられる出来事が次から出てくる。「お金があっても、使い方がわからない。」という富裕層もいれば、「貯蓄のような自己防衛しか今の緊張を保てない。」という人たちもいる。今日、一日を無事におくれたら有難いという人たちはでも、ニュースをつけたら、グルーミーなものが入ってくる。”ここで、自身が生きている現実”と乖離しているかのような事象を比較すれば、自然と幸せだったはずの来し方に疑念も湧いてくる。自分は自分でいいし、平穏に、というのは最大公約数の願いで、個人的にもそうあってほしいと心から思う。でも、この息苦しい空気は何だろうとも同時に浮かぶのも不思議ではなく。

それは、自分があと30年は生きようと思ったときの社会のマトリックスがはっきり視えないからで、更に、自分よりもっと若い、それこそ産まれてきた子供たちはどんな未来的な道を歩むのか、考えて込んでしまう。三十代半ばは「転機」でありながら、何かとこれからに向けてのパースペクティブがぼんやりではなく、固定されてゆくようで、焦りもある。以前みたく、34歳という年齢での雇用設定はなくなってきているが、キャリア・ラインを問われるレベルの「年齢不問」はシビアになってもいる。

***

それでも。

過度にペシミスティックに振り切れる必要もないと思う。暗い話題に詳しくなりすぎると、心身は衰微してしまう。「話題」の次元ならスルーしても、いざ、実生活に「暗み」が入ってくることで、これまで見えなかった明るさを近付いてくる。

大病をしたら、健康の眩しさに気付いたり、季節に吹く花が温度や気候を読んでいるのに気付くと、自然の凄さを感じもするし、利害抜きで成り立つ人間関係には改めて意味深さを感じる。何一つ解決していない自分、多く人たちの環境を取り囲むあまたの現実は都度の何か大きなニュースの下で着実に進んではゆく。同時に、進んでゆくのは子供の成長であったり、夢みたいなテクノロジーの進歩であったり、想像を越えて、見たことのない体験も同時にあるなら、満更でもないという気は強くある。不自由な範囲で、自由にやれることはある。