文脈の再接続

この前、たまたまTVのニュース番組を観ていたら、有名なコメディアンがある事件にふれて「努力したら報われる、夢は叶うって教育は良くないと思うんだよね。成功者なんてごくわずかでさ、成功しても色々あるし。」みたいなことで、首肯できるところがあった。

先ごろ、長崎に行った際に人前でたまたま話す機会を得て、同じようなことを話した。

「絶対はないけれど、相対的に絶対はある。夢を持つことが大事だけれど、その夢が挫折したときにどう立ち直ってゆくか、そうしたら、また違うヴィジョンが拓ける」と。

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日本は再チャレンジがきかないシステムで、20代はこれからどうにかなるよね、ってぼんやりしてると、もう押し詰まってしまう。あの時、こうしていれば、というのは色々あるけれど、「その時は、そうしかできなかったのだ」と思う。だから、怠惰とか後悔という感情に収斂せずにいいのかもしれない。僕は、大学を辞めようと思っていた時期、引き止めてくれたのはもう今は会えなくなった恩師ともいえる医師だった。「大学だけは絶対、辞めるな。」と。その、絶対はやはり、絶対だった。這うように大学を卒業した。だからこそ、「母校」という言葉に距離感があるのは学び舎という場所で良いことも多いけれど、基本、学ぶ者であるときのその学校での記憶や想い出は苦くなってしまうからで、そんなに美化される何かはないと思う。

高校時代もそうだし、「あの時は良かった」というのは絶対領域だから、そこはやはり相対化して捉えるべきなのだろう。

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あるときに会ったやり手の経営者が言っていた。「自分は昼夜問わず、ガムシャラに働いてこの会社を大きくした。それにしては、今の者は弱すぎる。」、と。それは「尺度」が違うと感じて、時代と環境要因を見過ごしていると思って、違うアドバイジングをした。例えば、僕などはバブル時代もその前の高度経済成長時代も何にもないところで生きてきた。どちらかというと、自意識面に閉塞をもたらせる言動が多かった。宮台氏の台頭など社会学の時代の趨勢も合わさって。

就職試験なども6次試験までなんてザラで、何十社受ける、エントリーする、そういうときで、初めて大教室で「自己分析セミナー」というものに参加したときに、その「自己分析」というものがどうにも自身に合わなくて、いや、22、23歳で「自己」はあるのだろうか、と率直に感じたのは、そんな「自己をもたなくていいよ。」というのが大学の教員のみならず、多くの先達が言っていたことだったからで、ああ、そういうことか、と、その後、たまたま異国で色んな人たちと出会った。官僚になられる方、外語大の方、国際機関に勤められる方、音楽稼業をしてゆく方、そのときに「世の中って広いな。」と当たり前に思った。

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昨日、在る方と話をしていたら、自分が子供持ったら、例えば、FBで誰かの子供の写真でも“わかる”んですよ、と。そういうことなのだと思う。よく色んな方に、「色んな国の色んな文化をしれていいね。自分も今のここじゃない、違う景色を観たい。」といわれる。でも、実際、そう言っていた人がふと異国なり異地になると、「しんどさ」を痛感する。しんどさとは、ここではない、どこかを維持している内はまだ良くて、「ここ」になったら、観光気分ばかりでは居られない現実が出てくるからで、今年、移動を多くしながら、現今の日本のことを改めて知らないな、と思うくらい均質的に平坦になってゆく景色や複雑でヘビーな情感を色んな方から受けた。

地震予知も沢山されている。安全も相対的なもので、関西が、九州が安全ということはない。それに、エネルギーや食糧の問題だけではなく、経済面がこれだけカオティックになると、導線も余計にこんがらがる。

未来が担保されていれば、家族を持とう、家を買おう、車を持とうと素直に希望的な何かを持てる。しかし、今はヘッジ、保険が先立つので、「控えておこう」となる。東南アジアのハレ的な喧噪から帰ってきて、「日本の暗さ」が気になることは多かったのだが、その「暗さ」はそういったところに帰結していたのだろう。暗い瀬に暗い言葉を並べることは容易で、“反―を唱えること”もときに大事なのだとも思うが、そうじゃない楽しさ、生活そのものの再定義ってあるよね、とも感じる。

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京都に初めて来た人には四条河原町などの繁華街を案内するよりも、少し辺鄙な場所を案内する。おそらく、京都タワー清水寺はその後、行かれたらいいですよ、と。奈良や大阪でもそうで、シンガポールに行ったときも、もてなしてくれた方はオーチャード・ストリートなんてなにもない、と言って、外れた場所を紹介してくれて、そこがとてもいい雰囲気で安い食事処で景色も良かった。でも、僕も例えば、東京なんて行けば、ミーハーにスカイツリーなんて行きたいなと思ってしまう。それも相対的で、また、絶対的なものなのだな、と感じる。

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ハロウィーンやクリスマスがこれだけ日本で賑やかになってきたのは、W杯もそうだが、シェアできる共通言語、簡単にいえば、公のイベントごとには巻き込まれようみたいなことだとも思う。宗教性や歴史的背景は置いておくとしても、イルミネーションが綺麗で、恋人や友達とはしゃぐ、コスプレしてみるのも許される、そんな場に乗る安心、公然たるハレの場にサーフしようという行為性で、過剰とも感応しながら、鬱積された集団的無意識を鑑みていると、許容できるところもないでもない。

なんでも、文脈の再接続が要る。
そればかり考えている。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

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