【REVIEW】COLLEEN『The Weighing Of The Heart』

トム・ヨークビョークが称賛したアイスランドのオーラヴル・アルナルズもそうだったが、エレクトロニカIDM以降に古典的な音楽を混ぜ込んだ、いわゆる、ポスト・クラシカルとは現代音楽の幸福な実験過程であり、その過程の「生成」途上において巻き込まれる古楽器や人肌通った温度感を保つ作品が次々と出てゆく昨今の流れにおいて、例えば、チルウェイヴ、アンビエント・ミュージックがR&Bやソウル・ミュージックをリファレンスしていきながら、当初のネットでの繋がりの稀薄さから個々の身体知を取り戻そうという機運の中、世界の多様性を受け止めるように変性の時期にある。

その変性を端的に示すのがこの約5年振りのコリーンの『ザ・ウェイング・オブ・ザ・ハート』になるような気がする。この作品を聴いていると、ふとした契機に、シャーデーやエールの持つ何とも言えない優美さ、エレガンスに彼女自身が言及するアーサー・ラッセル、ムーンドッグといった面々の一筋縄ではいかない感覚知が無限循環するように、連結している瞬間をおぼえる。さらに、このたび、コリーンことセシル・ショット、彼女の声が殆どの曲で用いられているのもあり、賛美歌のようなものから、コクトー・ツインズ辺りを思わせる透明度を持ったもの、カテドラルでの反響をそのまま加工して、呈示したもの、シャルロット・ゲンスブール的なSSWとしての翳りまでも包含している。

その声は、ウィスパー・ボイスと指摘するには平易だが、セシルの声には美しさと多少の震え(怯え)がある。その震えが何層にも重ねられることで、今作を平面的な作品からまるで宮廷音楽のようで、しかし、どんな言語を持つ誰しもがどんな場所で聴いても、奪われる“原始的な何か”が惹起させる。彼女は声を用いることに、これまでのインストゥルメンタル・アーティストとしての先を行きたかったと述べ、ただ、SSW的にはなりたくない、中間でありたかったとのニュアンスを示す。レコーディングは艱難を極め、自身のコントロール・フリーク振りも実感したようだ。

“ポスト・”クラシカルとは基本、テクノロジーとの拮抗が現代音楽をより広汎にかつ、ときに匿名的にアート志向と商業性の結い合わせをはかっているところがあったが、この中で、印象的なのはコリーンが意図的に<非>欧州的であろうとするほどに、求心的になる倒錯の鮮やかさかもしれないと言える。トレブル・ヴィオラ・ダ・ガンバ、ギター、クラリネット、ピアノ、オルガン、フレームドラム、玩具のガムランからマラカス、多くのベル、リズムとハーモニーに支点が置かれ、その支点からパーカッシヴに透き通った音風景を持ち上げるのにも、関わらず、多国籍音楽という雑多性ではなく、無国籍音楽みたく、どこかで聴いたことのあるような響きが残る。

まるで、孤高たるコリーンが10年にして行き着いたのは、レディオヘッドの『KID A』のような、彼女の作品以外でしかないが、そうと表象するほど明瞭でもなく、聴ける作品としての純度が澄み切った内容になっているのが非常に興味深くも、創作への執念と創作意欲の逞しさも感じる。筆者などは、深夜に5曲目の「Break Away」で1分少しの間で繰り返される《Break Away》の反復を聴いていると、トランシーさと不気味さも感じてしまった。これは決して、誘眠効果をもたらすアルバムではない気がする。

生楽器の組み合わせ方やギターの鳴り、オリエンタルな旋律、エフェクト、までもここには彼女のストイックな美意識が通底している。無駄がないというアルバムというのは味気ないところもあるが、この30分ほどの間の11曲に過ぎる贅沢な時間は「無」から「有」が生まれないように、「有」が絶対的な「無」に還られないように、その狭間を往来し、無駄がない。何でも、二項対立軸で成立しなく、前史は、反や非ではない形で、前史の継承として現在史に置き換えられることもある。

この作品はそういう意味で、ポスト・クラシカルの“ポスト―”を抜け、今の古典となり、5年後、10年後、その先も残ってゆくのではないだろうか。耳のエチカを変え得る静かな、これまでにない形式主義を越えた他者性への航続的な誘惑をもたらす。

Weighing of the Heart

Weighing of the Heart