ヒラセドユウキ『Monochrome』について

不世出のフランスの作曲家、エリック・サティ1920年にいわゆる、室内楽曲「家具の音楽」を作曲したが、それは、日常の生活を遮断することなく、そこにただ、ある音楽を目指した。結果として、様々な解釈はあるが、ミニマルで甘美な楽譜から零れた余白が日常生活に寧ろ介入し、潤沢にしたように思えもする。

今では、日常生活から逃れるためのロマンティシズムとは違う、過度な音楽が溢れる中で、家具に溶け込ませることさえ艱難でもあるが、サティの理念は様々な分野に影響を与えている。たとえば、00年代半ばからじわじわと拡大を続け、ゴールドムンド、ピーター・ブロデリック、コリーン、haruka nakamura、オーラヴル・アーナルズ、ハウシュカ、Akira Kosemura、ダスティン・オハロランなどの作品や活動により、アート性と純音楽的な実験が交叉していった“ポスト・クラシカル”とは、ピアノを軸に置きながらも、「家具の音楽」のような要素を当初は含んでもいた。しかし、多くのアーティストは大胆に“うた”やダンス・エレメントを取り入れたり、積極的に異分野とのコラボレーションを行なうなど、エレガンスだけではない、ポップ・ミュージックとしての側面も打ち出し、同時に映像とのシンクロもはかられていき、複写可能なようで、どこまでも記名性の高さを持った音が増えていったのは記憶に新しい。

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そんな中でも、気鋭の存在たるヒラセドユウキは、シングルの「劇的日常」、EPの『見たかった景色』の段階でのオルタナティヴな姿勢には寧ろ(「激的日常」という曲目があったように)、どこか芸術としての音楽を聴き流させない強さが見えもした。


”ポスト・クラシカル“という言葉、ジャンル自体が二次的な生成言語である以上、彼の音楽もより研ぎ澄まされ、より寡黙になってゆく必然もあったとしたならば、このたびのファースト・アルバム『Monochrome』でひとつ明瞭な結実を生んだと思う。氏が全体のコンポーズ、ピアノを担い、徳澤青弦のチェロ、2曲で参加している廣橋英枝のソプラノという非常にミニマルな構成にも関わらず、これまで以上に拡がりのある音風景がある。”Monochrome(白黒、単色画)“という語意のとおり、聴き手側が想像力と色彩を編んでゆくようなところもあるが、例えば、「ぐるり」という可憐な佳曲から浮かぶのは人によっては郷愁、慕情であったり、感傷であったり、または、喪失や悲しみなど、更には全く違ったことも浮かびもすると思うものの、感情の襞に繊細に響く何かに救われることもあるかもしれない。「夏を想う」、「名も無きワルツ」の歌が入った曲も同様に、近くて、とても遠い情景を喚起させるようなところがある。しかし、最後に「Me」という美しい旋律を持った曲で、ヒラセドユウキ自身が『Monochrome』の再定義をしているようにも思える。つまり、ここでアルバムとして完結はせず、循環するように、これから新たな色を付けられるのを待っている楽曲集でもあるがゆえの、”Monochrome”なのかもしれない。

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