【REVIEW】VAN DYKE PARKS『Songs Cycled』

そして、「孤独」に戻る。

フランツ・カフカの未完たる『アメリカ』は、主人公たるカール・ロスマンも自身を実質上、彼を監督する人間に振り回され、入れ子的な構造に巡り、放たれるのは自我という不安定さ、であり、未然の決意である。「アメリカ」は非/完全な大人として、今も在り続けるとしたら、言及できる場所は、ドラマツルギーを離れてしまう。つまり、ナラティヴにアメリカを乗せることは不可能である。

そういう意味で、いまだにヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』、ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』は双方のキャリアの中でも特に多くのアーティストやリスナーを魅了し続ける理由を考えることがある。

1960年代後半のUSにおけるスタジオ・ワークスの限界にまで挑まれたパラノイアックなまでの二作。

室内楽的なオーケストレーション、曲単体よりも、作品そのものから浮かぶ混沌と、ファンタジックな音風景。それは当寺のヒッピー・カルチャー、ユース・カルチャーへ対しての挑戦状だったのかもしれない。特に、ヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』では、万華鏡のように組曲形式を取り、レニー・ワロンカーのプロデュース下で、彼の才気が滾っている。ハワイアン、カントリー、マンボ、ハバネーラ、ボレロ、マーチ、ラグタイム、そして、ベートーベンまでと多くの断片が次々と浮かび上がってゆく。ランディー・ニューマン、ブライアン・ウィルソン、ドノヴァンの影も差し込みながら、サイケにうねり、アメリカというあらかじめの未完の国に向けて、南部のミシシッピ州生まれの彼が西海岸でこの音を編み込んだ意図はリリースから45年を経っても、掴めそうで掴めない。

そもそも、“この音楽はこうである”、という断定ができるほど、簡単な互換はない。恣意的に増えるロック、ポップス、ジャズのカテゴリーはあれども、歴史を汲みあげ、今の時代の均地化した場で、カテゴライズの誤配は読み手、聴き手側にとっては、あえて、カテゴライズの誤配の安心に浸ろうとする錯誤も生まれる。これは、こうである、と言い切られると、一瞬は「安心」はする訳だが、「本当」とはなく、虚/実が円環構造のように感情を抵触し、最終的に、個々にとっての“良い/悪い”の判断を濁す。

つまりは、表象された作品における時代性と状況性、その他作品に付随するイメージを取り除き、その「作品」に他者として陶然する行為には、条件制限の内側で音楽が評価されてしまう当世において、逆説的にその評価はまったく別のものになってしまう危惧があるということかもしれない。

ヴァン・ダイク・パークスは、大きな文脈に沿えば、作品の時代性と状況性に対してアーティストとして批評的な立場を取る。2011年からのアナログ7インチ・シングルの6連続リリースという、配信時代への抵抗といった簡易な意味ではなく、彼自身の原点を再度、確認するようで、また、今の時代に奇妙な照準が合っているようなところが面白かった。だからこそ、それら6枚の7インチの全てを収めた今作は『ソングス・サイクルド』と名付けられているとも感じる。複数形、と、過去形。自身へのオマージュ、相変わらずのチャームさ、イロニーにも溢れている。

『ソング・サイクル』のように、組曲的な雰囲気もあるが、もう少し整然とされており、9.11やハリケーンカトリーナアメリカ社会に対する想いなどが混ぜ合わさりながらも、メロディーのスイートネスが映え、贅沢な音楽の奔流がここにある。

ストリングス、アコーディオン、ギター、ピアノなど多くの楽器が雑ざり、捻じ曲がった空間の中で、彼の声がしっかりと届いてくるのもいい。ルーツ・ミュージックへの敬意、アメリカという国が飲み込んできた歴史の中で芽吹いた多様な音楽とそこに纏わるカルチャーを横断してゆく様はやはり、聴く喜悦を誘引し、目まぐるしく遷移する音像は美しい。

例えば、「Wall Street」という多角度から読み取れる記号を付した曲では、イロニカルにもとても美しいバーバンク・サウンド的といえるだろうか。また、『ソング・サイクル』内の「The All Golden」のセルフ・カバーでは、ピアノ、アコーディオンで彼の現在の声で比較的、ストレートに届け、最後は壮大なオーケストレーションによる「Amazing Graces」で、『ソングス・サイクルド』そのものを祝ぐように、いまだ進行形のアメリカの未完を再度、言及するかのように、終わるところも彼らしい。

泉のようなアイデアがそのまま投げ捨てられているわけではなく、逞しい想像力と音楽的な素養、語彙、彼の来し方が、難解に、シアトリカルにも感じるかもしれない今作を、聴き手の敷居を選ばないポップ・ミュージックとしての毅然たる姿勢を示している。

年齢や世代を越えて、あらためて届いて欲しい一枚だと感じると同時に、この作品は回流するある国のひとつの見取り図のきざはしでもある。