vita brevis,ars longa.

純然たるクラシックの棚の隣に呼吸を置かずに現代音楽の棚があり、想い出では00年代半ばを境目に装丁に凝った書籍風のCD、カセット・テープ、限定500などの語句とともに、視覚に訴えかける“雑然性”が自身の知覚を掻き乱した。よく訪れていた大型レコード店は、貪欲にそれらのコーナーの充実をはかっているようで、手書きのポップから、参考までに、という作品を並べる様までクールで、ハウシュカの近くにはAOKI takamasa、Oval、更にはエイフェックス・ツインまでリーチされていて、エレクトロニカIDMの系列作品群があり、気付けば、“ポスト・クラシカル“という附箋が躍るようになった。ジャンル分けの有効期限、賞味期限といった論争より、附箋が生まれることで渋滞していた道が見通しがよくなることは確かで、電子音楽、テクノ・コーナーになくても、そこに行けばある、現代音楽コーナーになくても、そこに行けばある、またはワールド・ミュージックのコーナーになくても、そこに行けばある、ということが加速度的に増えていった。ファナ・モリーナの話題作の端緒となった―もう、15年も前になる感慨と、その後、活動の幅を考えると、想いが膨らむ―00年の『Segundo』がアルゼンチンの棚で大展開されていなくて、フランスのコリーンなどと並べられていたり、日本的名称でもそこから脈状に音楽文化の歴史をジョイントしていったアルゼンチン音響派の括りでフェルナンド・カブサッキ、モノ・フォンタナ、日本からもROVOなどの名前、作品が紹介されていて、更に、そこからサティやクセナキス高橋悠治まで飛行できたりする、そのサウンド・クルージングの感覚は心地よさと、前衛性の中にも形容しがたい浮遊感と情緒性が秘められていて、デモーニッシュな魅惑をおぼえもした。例えば、My SpaceSoundcloudSpotifyDropboxの大まかな流れでもいいが、匿名、記号的であればあるほど、面白い音楽が溢れだした過渡期に「個」という律性の中で「自己」と「非・自己」の境界線を敢えて溶解させ、分化させてゆくときに、昨今の”アメリカーナ“や”和モノ“あたり然り、元来、その土地に住処を持っていた先住民の口承伝承と、新しく移民した住民たちの持っていた表象伝承が架空的かもしれないが、新しい神話のひとつを産出しよう、という試みの脈動が同時多発していった時代は、TPPやグローバリゼーション隆盛前夜に、「世界はよりひとつにまとまり、行き来しやすくなる」べきだ、のような”べき“論へのカウンターを持てていたのかもしれないな、というには今はそうじゃないのかどうかといえば、個人的に行き来しやすくなったがゆえに、世界を隔てる境界は厳然としてきているという矛盾的な言い方、考え方に落ち着く。ポスト・クラシカルも「ポスト」がつく段階でレファレンスされる現代音楽の雄壮な歴史がバックスクリーンに映る。武満徹ブーレーズも、またはブライアン・イーノなんていうのもそうかもしれない。ただ、越境者の一部は以前の場の歴史への愛憎に深い敬意に似た敵意にも似た想いを持っている。そうなると、生来の異境者の中には知らないことに対しての知覚過敏はどの振れ幅まであるのだろう、想いは湧くが、一つの国の中でも移住の名を借りた亡命的なメタファーを帯びた含みがある瀬における越境者たちは、知っていた歴史は饒舌に語り継ぐより、頑なに舌を噛むまではいかずとも噤むことも出てくる。深い敬意に似た敵意とは時に「言語化できない」もので、だからゆえに、越境し、異地に足を踏み入れたときに覚悟を決めることが出てくる。「プロテアンで分裂的な人格性を持っていれば、郷に入りやすい」と言えるには、その郷に入った人たちの轍に思慮を膨らませてしまう。

話は逸れたが、今では現代音楽、ポスト・クラシカル、ミニマル・ミュージック、更にはアンビエント・ミュージックまでが同じ棚に並んでいたりする。カテゴリーは恣意的なものだから、探しやすいといえば、探しやすく、K-POPコーナー、アイドル・コーナー、ヴィジュアル・コーナーが煌びやかな躁性を持っているのからすると、以前よりシックになっていて、これもまた多文化社会の中での明確な住み分けの一例とも想う。ここのすぐ傍に人口密度の高い賑やかな町があるのは「わかっている」が、興味がない、いや、そもそも知らないから、行けない。想えば、アメリカではいまだにカントリー・ミュージック専門チャンネル、ブルース専門チャンネルがあって、トラディショナルなものに手厚いところがあり、オルタナ・カントリー、フリー・フォークなど新時代に分岐しながら、「前史」への深い造詣がある。旧弊の野暮ったい慣習は壊して、次へ行くためには「前史への無知」は致命傷になり得ることがある。新しい世代、若者論の無為性と一緒で、その時代のモードにフィット、適応した人たちは前史が自分史として生きていた人たちからすると理解に苦しむことはあっても、自分史を生きてきた人たちの前史はどうだったのか、教科書が改変され、憶えた史実に誤謬が多かったりする状況では、どこかで架空の写真や詳細な記述さえ残っていない、小さな歴史を刷新し続けるのがさだめなのかもしれず、小さな歴史は家族単位で一時期の「家系図ブーム」なども考えてゆくと、”ルーツを辿ると、皆どこかに辿りつく(はずだ)ということを知りたかった”から、寧ろ、家系図が適度に途絶えていたりする方が良かったのではないか、とも思う。戦後70年にして、「あの人が戦地から戻ってきていなかったら、自分はいない」、そういう例は尽きない。でも、生きていたときの「あの人」に話をよく聞くと、「幸運だっただけだ。」とも言っていたりする。幸運に努力などが重なり、後継に系譜が出来てゆくにしろ、その「幸運だっただけ。」の言葉の深奥は自分の想像を越える壮絶な生き方、事情が渦巻く。

***

最近、一時期のポスト・クラシカルのアーティストたちの舵取りが面白い。ハウシュカは、プリペアド・ピアノを用い、不協和音と、たおやかな旋律の美しさをクラシカルに保っていたときからすると、ダンス・ミュージック、ジャーマン・ミニマルの森に入り込んだようなほの暗いエレガンスが表出してきたり、マックス・リヒターの繊細でディーセントな映像喚起的な音響工作はサウンドトラックでも駆使されながら、ヴィヴァルディの『四季』のリコンポーズで確かな収穫を残した。また、コリーンは当初のどこか寓話的でドリーミーな音像からポップネスが混ざり合い、最新作では彼女が幼少期に聴いていたというリー・ペリーの影響を経て、ジャマイカ音楽、ダブ・ミュージックとの共鳴をしている。と思えば、既に話題になっているチリー・ゴンザレスは弦楽四重奏と組んだ良作『Chambers』 での仮装化されたストラヴィンスキーバーナード・ハーマンの残映が程よく軽やかに舞っている。オーラヴル・アルナルズはアリス=沙良・オットと組み、ショパンの典雅さの骨組みだけを残したような意匠で今に呈示し、ピーター・ブローデリックは声の属性と付随した歌の響きへとシフトしている。それぞれにとって進行形であるのは勿論だが、ポストの後に回帰してゆくのはルーツたるものへの敬意と、雄大な歴史の中に絡め取られまいとする今の息吹を持った呼気の荒さを感じる。

***

そんな中で、現代のポスト・ロックのうねりの中でも圧倒的な存在感を持ったNYのバンド、バトルスから巣立ち、ソロとしての作品、ライヴ、キャリアの評価も年々重なってゆくタイヨンダイ・ブラクストンの約6年振りの『HIVE1』の見事さには唸った。09年の『Central Market』で魅せたオーケストレーションの妙、電子音楽との融和、ノイジーで過剰なまでの情報量が雪崩れながら、昂揚の真ん中に凪があるような展開が一曲内で見事に止揚されるさま、ウィットに満ちたアレンジメント、アフロポリリズミックなリズムまで今の耳、感覚で聴いても褪せない。情報量の多さやマッシュアップ、多国籍性を追求した無国籍的で新たな名称付けを俟つような音楽は10年代において、どんどん生まれてきているが、この『HIVE1』は文化の衝突点が視えるだけでなく、前述のポスト・クラシカルのアーティストに通じるマルチ・アングルな感性は強化されながらも、サラダボウルの中で、スティーヴ・ライヒマウス・オン・マーズ、マシュー・ハーバート、コーネリアスなどとの底奏を感じるが、本人はWIREDのインタビューで「自分の電子音楽のルーツを探検する」、「モジュラー・シンセサイザーの周辺で起きている技術的に新しい動きを取り入れる」といった旨を述べ、過去に記譜された音楽と電子音楽アブストラクトな部分を折衷させた、という。そこでの電子音楽のルーツとして彼自身が挙げるアーティストがエドガー・ヴァレーズ、イアン・クセナキスオウテカ、レーベルも《Warp》、《Raster-Noton》、《Mego》といかにもなものが連なる。「Boids」のシンセに被さる中で聴こえてくるパーカッションの多層的なリズム、「Studio Mariacha」でのファニーなエレクトロニカ、「Scout1」での砂嵐のように無数に行き交う要素群といい、マッシヴな実験の最中という箇所もあるが、耳をすますと、虫の鳴き声が聞こえてきたり、カオティックな音像、砂嵐の向こう側に原始的なリズムの躍動が胸を打つなど、平板な人工的無機性や小難しさより先立つものがある。

***

『Psycological Science』 誌で発表されたランカスター大学の言語学者のPanos Athanasopoulosの新しい研究は使用言語によって、行動、物事の感じ方、捉え方が変わるというので話題になった。


【Two Languages, Two Minds Flexible Cognitive Processing Driven by Language of Operation】
http://pss.sagepub.com/content/26/4/518

被験者に、自動車の方向へと歩いている人の動画を見せた際に、母国語が英語の人は「人が歩いている」とし、母国語がドイツ語の人は「自動車に向かって歩いている」と答えた。“歩いている”のは共通の行為認識だが、そこに言語によっては“行為だけ”を切り取るものだけやそうじゃないものがあり、その言語を常時使用、または複数使用する人によっては「母国語の属性」に近づくという。バイリンガルのレベルを越えて、母国語以外を話す人が増えていくにつれ、言語属性に沿うように自身の行動属性も複眼化していく。幾つもの角度からフォーカスをあてて「ひとつのもの」を観ていても、感じ方の斑や矩を越えるのは難しくなったのかもしれないが、その「ひとつのもの」を眺めようとする同じ場に立っている時点で意味のスイッチング過程は行なわれているのであれば、またいつか巡りゆく歴史が交叉することもあるのでは、と淡い期待を寄せたりする。