予め歌われることのないラブソング―岡村靖幸を例に

ポップ・ソングが突き詰めた形でラブソングに辿り着くとするとき、何故に日本中、世界中に溢れるラブソングはどうして尽きないのか、考察を巡らせてみることに致しました。

ラブソングと言いましても、I LOVE YOUが男性側、または、女性側から異性へまたは同性へ届けられるものばかりではなく、ときに自己から非・自己の溝を埋めるためのもの、イマジネーションとして仮定された「YOU」に向けて歌われるものがあります。一時期、“セカイ系”という言葉が産まれましたが、そこでの世界観はI WILL DIE FOR YOU(あなたのためなら死ねる)、あなたの先にセカイ(世界)の破局を結い、二人で閉じた中での切実な感情の刻みが為されているもので、それは形を変え、今はより最小単位、または、メディアは全てメッセージであり、そこから発される性的記号に反射的に感覚を持ってゆくケースもあるかもしれません。

岡村靖幸さんというアーティストが居ます。おそらく若い方でも、何らかの形で目に、耳にしたことがある方かもしれませんし、何故にいまだに彼を巡る特殊な訴求性とは何なのか、不思議に思う方も居るかもしれません。彼を敬愛するアーティストも多くおられます。例えば、Mr.Children桜井和寿氏、スガシカオ氏を筆頭に、2002年のトリビュート・アルバム『どんなものでも君にかないやしない』では、朝日美穂さんの陣頭指揮の下、カーネーション直枝政広氏、くるりクラムボン、更には栗コーダーカルテットなど幅広い人たちが彼の曲をカバーし、現在進行形でも彼の曲は多くの男性、女性問わず、アーティストにカバーされます。しかも、それぞれが何らかの強い想いを持ち、ときに何らかのコメントも寄せます。そんな、向き合う通底には常に「ラブソング」を巡っての底へ降りてゆく音楽的語彙、それを支えるファンク、ヒップホップ的なものをベースにしたサウンド・ワーク、アドリブ、スキャット、セリフまでも曲内に入れながらも、持て余される衝動をパッケージングしたアーティストとしての業と呼ばれるほどの繊細さへの感応もあるのかもしれません。

節回し、癖のある声、そして、独特のサウンド、生々しくも過剰な歌詞まで好き/嫌いも分かたれる要素も孕みながら、また、実際にコンスタントにオリジナル・アルバム、シングルが出されていたのは80年代後半から90年代前半であり、その後は長いブランクや幾度か彼自身のキャリアを停めざるを得ないこともあり、順調に新曲、新譜を発表し、ライヴを行なっているとは言い難いところもあります。それでも、なぜか彼の名前はずっと散見します。ソロ・アーティストとしての名前ではなく、曲提供者、プロデューサー、コンポーザーとしても。今も着実な活動をしておられます川本真琴さんのデビュー曲「愛の才能」での作曲、編曲、コーラスは鮮烈でしたが、CHARAさんやmegさん、最近では一青窈さんの「Lesson」でその存在感も示し、在日ファンクの「爆弾こわい」でのリミックスも記憶に新しいところです。

ここで、再発もされましたオリジナル・アルバム、更にはシングルなど少しだけ触れていきたいと思います。1987年のデビューアルバム『yellow』、ここでは元来、渡辺美里さんなどの曲提供者から自ら歌い手、アーティストに移る際の端整さと過渡期の淡さが残ります。ジェームズ・ブラウン、プリンスといった黒い音楽を愛し、一レコード・コレクターとしても膨大な音楽を聴いている彼の「うたごころ」の一端がようやく刻まれたという印象もあり、若さと自身の活動の舵取りをこれから、というものではないでしょうか。このアルバムにも入っており、デビュー・シングルでもあった「Out Of Blue」は今でもライヴで愛される一曲ですが、アーバン・ポップス、また、90年代後半の風景が音に反射しているような風趣が伺えます。

少しずつ、彼特有の色が出てくるのは1987年のシングル「Dog Days」辺りからでしょうか。ネオアコ的な清涼さを持ちながら、「ラブソング」とともに彼のキータームの一つ、「青春」、そんな言葉が似合う切ない曲です。後年、「パラシュート★ガール」という曲で、女性部分をCHARAさんが歌い、男女間の差異を示す構成がここでは、元PSY・SのCHAKAさんが青春の破片、プールや太陽が散りばめられる中での求愛に「車のない男には興味はないわ」、「あきらめて 出直して 勉強でもしてて」と無碍なく返します(無論、この歌詞も岡村氏の創作です。)。ちなみに、後年の前述した「パラシュート★ガール」でのCHARAさんは「Oh My Lonely Baby バカな勉強もしない子は、相手にしないの」という印象的なフレーズを歌うように、勉強すれば、スポーツが万能ならば、どうにかなったかもしれない青春、それはスクール・ハイアラーキーを描写した昨今の『桐島、部活やめるってよ』で沸き起こった膨大な議論にも巻き込まれる因子もあります。

汎的に社会に出れば、職場内での多くの狭さ、コネクション、派閥などと混沌がありながらも、身分、ときにタレント(才能)一つで色んな場を乗り切れたり、相応な辛苦と不自由さともに対価も産出され得ることが多いですが、基本、学校という場所、特に義務教育枠から高校辺りでは自我形成と社会還元、アウトプットよりも強いられるものの中で自分の位置付けを策定しながら、生きていかないといけない、そんな側面もあります。どんなグループに属し、部活動をし、どれだけ勉強が出来て、または恋心、いじめ、多くの感情が坩堝のように滾る渦中、そこで煮詰められる「青春」は決して、いや、寧ろ華やかなものばかりではありません。そして、その時代に形成された何かで以降の人格も変わってゆく、そういうのもあるでしょうし、同窓会に出席できて、あの頃を笑い話に出来る、そんなディレンマは過ぎてからの、遠い、遠い日々を経てからのものは心当たりがある方も多いかもしれません。さて、「Dog Days」―夏の盛夏を経て、彼は「桐島」の不在で崩れる場所に足を置きながら、じわじわラブソングと自意識の葛藤、持て余すリビドーに潜航していきます。

1988年のセカンド・アルバム『DATE』では、冒頭の「19(nineteen)」から明らかに岡村靖幸色ともいえる濃厚な世界観が出来上がっています。咆哮、舌を巻くような歌唱、性急にして奇妙なサウンドのうねり、そこに乗ってくる日本語の響きと意味、発語を重視した合わせ方。

そんなに言うなら今から実際ここで
アイシャドーが剥がれるぐらいに泣き続けてよ
サイダーの様です 愛がこぼれ落ちる様は

(「19(nineteen)」)

性急に頭から歌い出される歌詞で、この三行はあとでも出てきます。日本語と譜割、メロディーと意味の関係性は様々、対象になります。分かりやすいところでは、桑田佳祐さん、桜井和寿さん、中村一義さんなどがときに用いる崩した日本語の歌い方、発語した際の快楽といいましょうか。それは英語の発語、例えば、ボブ・ディランを想い出せばいいかもしれませんし、フランスではセルジュ・ゲンスブールなどの仏語の滑らかさとメロディーの共振を考えてみても、日本語ではどうしても乗せにくい単語は多くなるのは、カラオケなどに行ったときに母音、子音に気を付けずとも気付くところで、岡村さんのこの歌詞も言葉選びが精緻になされている滑らかさがあり、同時に破綻しているようで、一気に余白から意味が拡がります。

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閑話休題。フラディナン・ド・ソシュールという言語学者が居ます。その方が唱えた概念にラングとパロールというものがあります。ラングはいわゆる、社会共約内で通じる決め事のようなもので、ここでいえば、「愛」になるでしょうか。パロールは、個人分節された言語の運用であり、愛がこぼれ落ちる様を「サイダーの様です」というのは彼のメッセージでしょう。そこから、ラングそのものもシニフィエシニフィアンという概念で降りていきますと、「愛」は「あい」、「A・I」、解体されてゆくことになりますが、だからこそ、言語はとても拡がり、音楽の幅に繋がります。この『DATE』では、一瞬、言葉遊びのような語韻掛けが多く出てきながら、リズムに最適な言葉を合わせながら、意味を無視したスキャットまで自在です。ただ、明らかに歌っている世界観は噎せ返るような愛を巡ってのあなたと私で、プリンス、ジョージ・マイケル経由の日本版ファンクでのセクシャルで、陶酔した聴く人が聴けば、引いてしまうような規格外のようで、当たり前のようなラブソング。それでも、「生徒会長」というモティーフが出てくる辺りはまだ、青春の中での階層性、コンプレックス、でも、自分はロックという武器がある、というそういうカオティックな好戦性の捻じれが見受けられます。そこから、いまだに代表曲の一つであり、2011年のセルフカバー・アルバムでも取り上げられた、子供の嬌声と4分間ポップ・ソングの体裁を保ちながら、ユーフォリックに弾ける1988年の「だいすき」では、アレンジメント、メロディーのみならず、語韻合わせまで純度が高くなっています。兎に角、君への想いだけが凝縮され、「ねえ 三週間 ハネムーンのふりをして 旅に出よう もう劣等感ぶっとんじゃうぐらいに熱いくちづけ」などのラインはこれまでの彼の切なさと繊細さが合わさったフレーズの一つだと個人的に思います。「三週間」と「劣等感」の語韻の距離。1989年の『靖幸』はゆえに、『DATE』から完全に自身の美学、度を超した実験性までが収められることになり、作詞・作曲、ほぼ全ての楽器演奏まで、と、一種の現評価に繋がるアルバムと言えます。ピーピング・トム的に誰かの秘密や生活を覗き込むような背徳感とひめやかさ、今はこれだけの情報過多の社会になってしまった分だけ、その覗き見る意味文脈は違えども、ゴシップの類はやはり、恋愛ごとが受けます。ただ、明らかに好き嫌いを分けるようになったかもしれないこのアルバムでふと、彼は印象的なフレーズも残しています。途中、中略しています。

僕達の生き方って正しいのかな?そりゃ すげえ 楽だしさ
暇だったらさ ビデオとかファミコンとかあるし 何時だってコンビニエンスストアはやってるしね 素晴らしい世の中だよ 素晴らしい
でもさ でもやっぱ 自分自身はどうなの? 自分自身は?
まわりは素晴らしいけどさ 裸の自分はどうなの 素晴らしい?素晴らしい?
ねえ 僕達は子供の育てられるような立派な大人になれんのかなぁ?

(「Boys」)

1989年7月リリースですから、もう20年以上も前、バブル全盛期、全てにおいて日本は大丈夫、という時代での懸念―。そこから、バブル崩壊失われた10年は20年に延び、今はさらに高度マテリアリズムに溢れている中で、ここでの独白的なフレーズで時代性を感じるビデオをDVDに、ファミコンスマートフォンに変えても遜色はないような気もします。そして、この時にはもう大人と言える年齢になりかけていた彼の最後の「子供が育てられる立派な大人たち」は現在、どうなのか、考えもします。クラシックにもなっている1990年の『家庭教師』で極点を迎えます。「カルアミルク」、「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」といった今でもずっと残り、スタンダードとして愛される曲からこれまで以上に練り込まれた特有の青春と、ラブソング、ポップスターたる自分を言及する曲まで。そして、錯綜の道とともに、時代の波に彼も翻弄されていったのかもしれないのが、以降とも言えます。歌詞は語呂合わせ、音韻から滲む意味を越え、アシッドになる一方の中でのこれまでのペースは落ち、ブランクが空きながら出されるシングル、どうにか紡がれた1995年のアルバム『禁じられた生きがい』。シングルでもよりヘビーなものが増え、コマーシャル的ではなくなります。1996年の「ハレンチ」では援助交際をモティーフに、1999年のタイトルにそのままなってしまった「セックス」では、8分を越える籠り気味なファンク・チューンで、これまでの希求対象たる「君」がどんな大学に行っても、どんな車に乗っても、どんな週末を過ごしても、どんな教科書を読んでも、どんなプールで泳いでも、という定番のフレーズ群が並べられながら、表題通り、セックスの一文字で収斂させようとするのですが、悲痛さの方が先立ちます。このシングルには、だからこそなのか、対照的に「せぶんてぃーん」というフォーキーな曲が入っており、そこでの彼はやはり青春を還りながら、自身のヴァルネラビティ(打たれ弱さ、攻撃誘発性)を包み隠さず、これまでの自身の贖いのように、自分も守り、許してくれた「君」を想います。

2000年の「真夜中のサイクリング」でも命懸けの恋が世の中を救うよ、という祈念のような何かと過去にあったような万能性を真夜中のサイクリング、夜のデパートの屋上へ行こう、という帰結点に立ち、00年代はやはり、彼にとって沈黙が多い歳月になり、1989年時点の「Boys」での吐露に自己が反映されていたのではないか、そんな証左にもなります。

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免疫学として考えたとき、自己を守るシステムで堅固なゆるぎない自己があるとされてきたものが機構解明により、自己と非自己は曖昧になってゆく要素が出てきた、非/自己とは自己の延長線にあるもので、その時の曖昧な判断ではないか、そんな研究が進められてゆく中、統合されている自己とは実はそう簡易なプログラミングではない可能性が出てきてもいます。また、Y染色体を持っていれば、生物学的に「男となる」訳ですが、XYの割合を考えれば、人間は存在体として女であり、現象として男である―社会的ホメオスタシスとして。こう書きますと、突飛かもしれない発想と思われる方も居るでしょうが、メス化、環境ホルモンの問題、染色体の割合、そういった世界の事例群を見ていけば、自己/非自己とは合わせ鏡の無理の道理なのかもしれず、岡村靖幸さんは自己として、「男」として鏡像たる異性にラブソングを投げかけてきた訳ですが、それは実は明確に簡単に、あなたと私が分かたれない認識論の混線が描かれている内省があったような気もします。

だから、今、男らしく、女らしく、という文言は異質排除と取り決めの中での無理を通すそういった副脈があるのではないか、そんな想いが個人的にあります。

世に溢れるラブソングはゆえに、時代が変わっても、尽きず溢れてくるのかもしれません。AKB48に見るラブソング、コールドプレイに見るラブソング、もっと言えば、予め歌われることのないラブソングまで口ずさむ余地にはきっともう少しだけ未来が待っている、そんな個々の集合無意識の優しさが繋いでいるのかもしれず、そう深刻に憂うほど、音楽は鳴り止まないと希ってもいます。

最後に、彼の今のところのシングルとしては最新たる「はっきりもっと勇敢になって」の中の一部歌詞を。
せめて、の青空に。

イメージしてよ青空 鮮やかな朝の色
不思議だね 愛情はbaby 自分だけじゃダメになってく

はっきりもっと勇敢になって

はっきりもっと勇敢になって