【REVIEW】Juana Molina『Wed 21』(Crammed Discs / Hostess)

教育学者の里見実の『ラテンアメリカの新しい伝統 ―「場の文化」のために』(晶文社)にはこういう箇所がある。

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

「わたしたちは、時間の中に生きている。世界の中に生きている。しかし、書くという行為は、私たちがその中に生きている世界をいったんつきはなし、「外側」からそれを見つめることなのだ。」

今作は、或る意味で、その「外側」からファナ・モリーナの個性を別種の形で構造化せしめたといえる。

前作から5年の歳月を費やし、その中で彼女はもう一度、自分自身の音楽の原点へ帰一のための模索をし、結果としてこの『Wed 21』は、過去作からの延長際にありながらも、キャリアを鮮やかに再更新することになったといえる。

全ての演奏を一人で行ない、完全なるセルフ・プロデュースとなったのも功を奏してか、これまで以上に緻密に練り込まれた音響美が際立つ。リード・シングル「Eras」(http://cookiescene.jp/2013/09/juana-molinaerascrammed-discs.php)はパーカッシヴなで奇妙な着地点を見出す印象も強く感じられ、MVもそうした内容だった。なお、このMVはマジック・リアリズムと前衛性がマッシュアップされた描写が冴えたものになっている。青いペルソナ、ティピカルな化学実験の絵図、コンテンポラリー・ダンスが混ざり合い、ホルヘ・ルイス・ボルヘスハイパーテキストな引用がなされたといってもいいだろう。


ただ、このアルバム全体を通じて感じるのは「Eras」に象徴されるマジック・リアリズム的なものよりも、積極的に着地点を見出さないセッション的な伸びやかさ、マッド・サイエンティストのような彼女の横顔という二義性であり、外縁はしっかり固められながら、ハミングや語呂合わせのように歌う彼女の歌唱も変わらず、併せて、サイケでデモーニッシュなサウンドも健在である。

また、今作では、その音楽性をして、次世代のファナ・モリーナと比較されもする同郷のマリナ・ファヘスと比べると、そこまでファナが“うたごころ”に拘泥していないかがより分かる。

しかし、拘泥していない、というのは逆説的に“うた”そのものへの意識が高く、ひとつのサウンドスケープを作り上げるための素材である、という証左なのだと思う。

例えば、7曲目の「Bicho Auto」でのボーカル・ループ、重ねられたコーラスが曲そのものの質感を不思議なものにし、ギターやパーカッションと融和しながらも、トランシーな展開に聴き手を連れてゆく際にも“うたごころ”ではなく、透いた“うた”が聴こえる。

なお、筆者は彼女の音楽の重要なポイントのひとつは、ユーモアだと思っているのもあり、特に魅かれたのは8曲目「El Oso De La Guarda」でのユーモア溢れるビート・メイクや「Final Feliz」での遊び心に満ちたカオティックなアレンジメントだろうか。

そもそも、最初に感銘を受けたアルバムがビートルズでは『アビー・ロード』、『ホワイト・アルバム』、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』などサイケ寄りなものであり、アントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトからサラ・ヴォーン、ドヴュッシーやラヴェルにも囲まれた優等生的な音楽環境ながら、12歳にして自ら初めて買ったアルバムはキング・クリムゾンというエピソードから、今さらだが、推して量るべきは彼女は端整な、フランソワーズ・アルディでもスザンヌ・ヴェガでもないということだろう。更に、以前ではフェルナンド・カブサッキやアレハンドロ・フレノフといった敏腕アーティストが参加していたのもあり、多少のラフさが外へと繋がってゆく拡がりがあったが、今回は、全てを自分一人で担った内側への潜航がこれまで以上に彼女のパーソナリティとサウンド・メイカーとしてのアイデンティティを補強しているのも興味深い。

いつかは「アルゼンチン音響派」の括りの中で語られることが多かったが、今作にどこか漂う無国籍性は、白面の顔のジャケットに象徴されるように、転機作、そして、彼女の新しい始まりを刻印した作品になったといえるかもしれない。多くの楽器群、サンプリング、重ねられた声、彼女自身の内面心理まであらわしたかのような”Sound Sculpture”の中には何度聴いても、捉えられない不可視化されたイメージの束が寄せてくる。邯鄲の夢のように。

Wed 21: ウェンズデイ 21

Wed 21: ウェンズデイ 21