vita brevis,ars longa.

純然たるクラシックの棚の隣に呼吸を置かずに現代音楽の棚があり、想い出では00年代半ばを境目に装丁に凝った書籍風のCD、カセット・テープ、限定500などの語句とともに、視覚に訴えかける“雑然性”が自身の知覚を掻き乱した。よく訪れていた大型レコード店は、貪欲にそれらのコーナーの充実をはかっているようで、手書きのポップから、参考までに、という作品を並べる様までクールで、ハウシュカの近くにはAOKI takamasa、Oval、更にはエイフェックス・ツインまでリーチされていて、エレクトロニカIDMの系列作品群があり、気付けば、“ポスト・クラシカル“という附箋が躍るようになった。ジャンル分けの有効期限、賞味期限といった論争より、附箋が生まれることで渋滞していた道が見通しがよくなることは確かで、電子音楽、テクノ・コーナーになくても、そこに行けばある、現代音楽コーナーになくても、そこに行けばある、またはワールド・ミュージックのコーナーになくても、そこに行けばある、ということが加速度的に増えていった。ファナ・モリーナの話題作の端緒となった―もう、15年も前になる感慨と、その後、活動の幅を考えると、想いが膨らむ―00年の『Segundo』がアルゼンチンの棚で大展開されていなくて、フランスのコリーンなどと並べられていたり、日本的名称でもそこから脈状に音楽文化の歴史をジョイントしていったアルゼンチン音響派の括りでフェルナンド・カブサッキ、モノ・フォンタナ、日本からもROVOなどの名前、作品が紹介されていて、更に、そこからサティやクセナキス高橋悠治まで飛行できたりする、そのサウンド・クルージングの感覚は心地よさと、前衛性の中にも形容しがたい浮遊感と情緒性が秘められていて、デモーニッシュな魅惑をおぼえもした。例えば、My SpaceSoundcloudSpotifyDropboxの大まかな流れでもいいが、匿名、記号的であればあるほど、面白い音楽が溢れだした過渡期に「個」という律性の中で「自己」と「非・自己」の境界線を敢えて溶解させ、分化させてゆくときに、昨今の”アメリカーナ“や”和モノ“あたり然り、元来、その土地に住処を持っていた先住民の口承伝承と、新しく移民した住民たちの持っていた表象伝承が架空的かもしれないが、新しい神話のひとつを産出しよう、という試みの脈動が同時多発していった時代は、TPPやグローバリゼーション隆盛前夜に、「世界はよりひとつにまとまり、行き来しやすくなる」べきだ、のような”べき“論へのカウンターを持てていたのかもしれないな、というには今はそうじゃないのかどうかといえば、個人的に行き来しやすくなったがゆえに、世界を隔てる境界は厳然としてきているという矛盾的な言い方、考え方に落ち着く。ポスト・クラシカルも「ポスト」がつく段階でレファレンスされる現代音楽の雄壮な歴史がバックスクリーンに映る。武満徹ブーレーズも、またはブライアン・イーノなんていうのもそうかもしれない。ただ、越境者の一部は以前の場の歴史への愛憎に深い敬意に似た敵意にも似た想いを持っている。そうなると、生来の異境者の中には知らないことに対しての知覚過敏はどの振れ幅まであるのだろう、想いは湧くが、一つの国の中でも移住の名を借りた亡命的なメタファーを帯びた含みがある瀬における越境者たちは、知っていた歴史は饒舌に語り継ぐより、頑なに舌を噛むまではいかずとも噤むことも出てくる。深い敬意に似た敵意とは時に「言語化できない」もので、だからゆえに、越境し、異地に足を踏み入れたときに覚悟を決めることが出てくる。「プロテアンで分裂的な人格性を持っていれば、郷に入りやすい」と言えるには、その郷に入った人たちの轍に思慮を膨らませてしまう。

話は逸れたが、今では現代音楽、ポスト・クラシカル、ミニマル・ミュージック、更にはアンビエント・ミュージックまでが同じ棚に並んでいたりする。カテゴリーは恣意的なものだから、探しやすいといえば、探しやすく、K-POPコーナー、アイドル・コーナー、ヴィジュアル・コーナーが煌びやかな躁性を持っているのからすると、以前よりシックになっていて、これもまた多文化社会の中での明確な住み分けの一例とも想う。ここのすぐ傍に人口密度の高い賑やかな町があるのは「わかっている」が、興味がない、いや、そもそも知らないから、行けない。想えば、アメリカではいまだにカントリー・ミュージック専門チャンネル、ブルース専門チャンネルがあって、トラディショナルなものに手厚いところがあり、オルタナ・カントリー、フリー・フォークなど新時代に分岐しながら、「前史」への深い造詣がある。旧弊の野暮ったい慣習は壊して、次へ行くためには「前史への無知」は致命傷になり得ることがある。新しい世代、若者論の無為性と一緒で、その時代のモードにフィット、適応した人たちは前史が自分史として生きていた人たちからすると理解に苦しむことはあっても、自分史を生きてきた人たちの前史はどうだったのか、教科書が改変され、憶えた史実に誤謬が多かったりする状況では、どこかで架空の写真や詳細な記述さえ残っていない、小さな歴史を刷新し続けるのがさだめなのかもしれず、小さな歴史は家族単位で一時期の「家系図ブーム」なども考えてゆくと、”ルーツを辿ると、皆どこかに辿りつく(はずだ)ということを知りたかった”から、寧ろ、家系図が適度に途絶えていたりする方が良かったのではないか、とも思う。戦後70年にして、「あの人が戦地から戻ってきていなかったら、自分はいない」、そういう例は尽きない。でも、生きていたときの「あの人」に話をよく聞くと、「幸運だっただけだ。」とも言っていたりする。幸運に努力などが重なり、後継に系譜が出来てゆくにしろ、その「幸運だっただけ。」の言葉の深奥は自分の想像を越える壮絶な生き方、事情が渦巻く。

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最近、一時期のポスト・クラシカルのアーティストたちの舵取りが面白い。ハウシュカは、プリペアド・ピアノを用い、不協和音と、たおやかな旋律の美しさをクラシカルに保っていたときからすると、ダンス・ミュージック、ジャーマン・ミニマルの森に入り込んだようなほの暗いエレガンスが表出してきたり、マックス・リヒターの繊細でディーセントな映像喚起的な音響工作はサウンドトラックでも駆使されながら、ヴィヴァルディの『四季』のリコンポーズで確かな収穫を残した。また、コリーンは当初のどこか寓話的でドリーミーな音像からポップネスが混ざり合い、最新作では彼女が幼少期に聴いていたというリー・ペリーの影響を経て、ジャマイカ音楽、ダブ・ミュージックとの共鳴をしている。と思えば、既に話題になっているチリー・ゴンザレスは弦楽四重奏と組んだ良作『Chambers』 での仮装化されたストラヴィンスキーバーナード・ハーマンの残映が程よく軽やかに舞っている。オーラヴル・アルナルズはアリス=沙良・オットと組み、ショパンの典雅さの骨組みだけを残したような意匠で今に呈示し、ピーター・ブローデリックは声の属性と付随した歌の響きへとシフトしている。それぞれにとって進行形であるのは勿論だが、ポストの後に回帰してゆくのはルーツたるものへの敬意と、雄大な歴史の中に絡め取られまいとする今の息吹を持った呼気の荒さを感じる。

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そんな中で、現代のポスト・ロックのうねりの中でも圧倒的な存在感を持ったNYのバンド、バトルスから巣立ち、ソロとしての作品、ライヴ、キャリアの評価も年々重なってゆくタイヨンダイ・ブラクストンの約6年振りの『HIVE1』の見事さには唸った。09年の『Central Market』で魅せたオーケストレーションの妙、電子音楽との融和、ノイジーで過剰なまでの情報量が雪崩れながら、昂揚の真ん中に凪があるような展開が一曲内で見事に止揚されるさま、ウィットに満ちたアレンジメント、アフロポリリズミックなリズムまで今の耳、感覚で聴いても褪せない。情報量の多さやマッシュアップ、多国籍性を追求した無国籍的で新たな名称付けを俟つような音楽は10年代において、どんどん生まれてきているが、この『HIVE1』は文化の衝突点が視えるだけでなく、前述のポスト・クラシカルのアーティストに通じるマルチ・アングルな感性は強化されながらも、サラダボウルの中で、スティーヴ・ライヒマウス・オン・マーズ、マシュー・ハーバート、コーネリアスなどとの底奏を感じるが、本人はWIREDのインタビューで「自分の電子音楽のルーツを探検する」、「モジュラー・シンセサイザーの周辺で起きている技術的に新しい動きを取り入れる」といった旨を述べ、過去に記譜された音楽と電子音楽アブストラクトな部分を折衷させた、という。そこでの電子音楽のルーツとして彼自身が挙げるアーティストがエドガー・ヴァレーズ、イアン・クセナキスオウテカ、レーベルも《Warp》、《Raster-Noton》、《Mego》といかにもなものが連なる。「Boids」のシンセに被さる中で聴こえてくるパーカッションの多層的なリズム、「Studio Mariacha」でのファニーなエレクトロニカ、「Scout1」での砂嵐のように無数に行き交う要素群といい、マッシヴな実験の最中という箇所もあるが、耳をすますと、虫の鳴き声が聞こえてきたり、カオティックな音像、砂嵐の向こう側に原始的なリズムの躍動が胸を打つなど、平板な人工的無機性や小難しさより先立つものがある。

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『Psycological Science』 誌で発表されたランカスター大学の言語学者のPanos Athanasopoulosの新しい研究は使用言語によって、行動、物事の感じ方、捉え方が変わるというので話題になった。


【Two Languages, Two Minds Flexible Cognitive Processing Driven by Language of Operation】
http://pss.sagepub.com/content/26/4/518

被験者に、自動車の方向へと歩いている人の動画を見せた際に、母国語が英語の人は「人が歩いている」とし、母国語がドイツ語の人は「自動車に向かって歩いている」と答えた。“歩いている”のは共通の行為認識だが、そこに言語によっては“行為だけ”を切り取るものだけやそうじゃないものがあり、その言語を常時使用、または複数使用する人によっては「母国語の属性」に近づくという。バイリンガルのレベルを越えて、母国語以外を話す人が増えていくにつれ、言語属性に沿うように自身の行動属性も複眼化していく。幾つもの角度からフォーカスをあてて「ひとつのもの」を観ていても、感じ方の斑や矩を越えるのは難しくなったのかもしれないが、その「ひとつのもの」を眺めようとする同じ場に立っている時点で意味のスイッチング過程は行なわれているのであれば、またいつか巡りゆく歴史が交叉することもあるのでは、と淡い期待を寄せたりする。

Mobility Fixing Structure

サザンのライヴに行ってきました。ライヴ・レポートはまた機会がありましたら、ということで、関係のないことも含めまして徒然と。サザン名義としましては、約10年振りのオリジナル・アルバム『葡萄』のセールスも順調で、古参のファンから新規のリスナーも巻き込んで、より装置性を増しながら、続けてきた強みに勝てるものはなく、クラシカルと呼べるべき演出、歌の数々から今の技術を折衷させた間域を往来しながら、破綻はしない、もはや、移動遊園地のような3時間半ほどの大規模な調性の取れたどこか、アンチ・モダンネス的なステージングでした。侘び寂びを大事にした、といいましょうか。過度といえるほど丁寧なまでに多くの時間と曲をかけて、運んでゆく様は流石だな、とさえ。客層は中高年の方が多く、家族連れも多かったです。そして、「新しく、何でも知ることができる」ハードルが下がり、“好奇心一つ”で跨げる敷居が下がり、自分の好きなアーティスト沿いに辿ってきたりするのも容易になったりで、若い子たちの集団も沢山居て、周辺には無邪気な“景気の良さ”が溢れ、グッズ売り場から近隣の店の繁盛まで覗きながら、自身としては「経済効果のトリクルダウン」を考えつつ、ただ、今は入場の際にID認証や身分証明書が当たり前になってきていますので、ふと来て、当日券で、とか、もっと言えば、いわゆる、ダフ屋さんがウロウロしていました風景とは「昔話」になっていくのかな、という気もしました。

オークションなどで、チケットが高値で転売されましたり、ダフ屋さんから買うというのはやはりいけない行為ではありますものの、コンプライアンスという概念がどんどんメタ化していっているのは感じもします。明らかに、グレーな人たちがコンサートでも何でも会場前でウロウロしていて、開演時間が迫ってきますと、途端に二束三文でも声を掛けまくる姿や、ときに中で渋々観ていた人がさっき居た人だ、なんてのは牧歌的なものなのかもしれず。露店でもそうですし、ある日、突然生まれるたこ焼き屋台、から揚げ屋台、カステラ屋台などは「粋」でいまだに寺社仏閣の途中でも見入ってしまうのですが、「しっかりしたところで、お金を落としましょう」みたく、そういう光景は未だあるにしましても、手軽な喫茶店、居酒屋、ファミレスなどで待機される人たちのキチンとした佇まいはとても律儀で、律儀にグッズなどを写真におさめたり、予め約束しておいた人たちとの対話に花を咲かせる、根本的に変わらないものがあるので、何でも「素地」があって、その上で、光量の高い対象物へのアフォーダンスを拒まない姿勢というのは決して悪くなく、続いてゆくのでしょうが、並列的に、“一見さん”よりコアなファンを囲い込んで、帯同させていった方がビジネス・モデルとして非常に効率が良いので、今はある人の、ある物の、ある場所の、ある店の、ファンという反動が生まれてきている性質への逆進的な流動性を是としたマーケティング・サイドのマトリックスは編みにくいのかもしれないな、とも思慮さえします。

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比較的、安価なチェーン系の牛丼店やファミレスでも、ターゲットは大学生やサラリーマンのここら、って主ベースを置いていた過去からしますと、データを取れば、シニア世代のヴォリューム・ゾーンが侮れなくなっている、なんてのは経営者サイドもよく言われますが、難しいのはそのシニア世代が「常宿」にするかどうかとなりますと、そこは読めない訳です。たまたま、有志との歩く会、集まりのついでにその店を使ったり、また、シニア世代は組織をリタイアされていたりするケースが多分にありますから、リピート率まで考えますと、ビジネス街での昼間のランチみたく、ある程度の投資コストから回収までのサイクルが見えにくいのもあるでしょう。ただ、三人の若者が500円ずつで1,500円を、よりは、一人の高齢の方が2,000円を、という方策は「誰も」が考えることでしょう。中長期的に見れば、前者の三人の若者の内、全員と言わなくても、一人でもリピーター、またはコアなリピーターになれば、一回あたり500円でも、堅実で優良な顧客になります。後者だと、パターニズムが「読めない」ですがしかし、仲間を呼んだり、ときに家族を呼んだりできる時間や財力、ネットワークを持っているケースがあります。そこで、利益率が高いアルコール類や小品を導入しよう、メニューをもう少し細分化させよう、とか、でも、飲酒運転は勿論、駄目だから、運転代理サービス業と契約しよう、公共交通機関の時刻調整や周辺の飲食店などとのバランスを精査しよう、などと複合的な視点で考えゆきますと、24時間営業より朝早く、夜遅く、で店員の数をこれだけにして、みたく、ポスト・フォーディズム的効率性がよりシェイプされることになります。コンプライアンスには、カスタマーサービス、ホスピタリティというものが漏れなくついてきますし、何かが起きた際の対応如何ではブランド・イメージが一気に下落し、回復が艱難になってしまいます瀬ゆえに、よりナイーヴに慎重な敷居設定をするとなりますと、やはり鑑みますに、相応の対価を払いますコンサートといった催しにもID認証が要るようになるのも仕方ないのでしょう。このたびもパスポートを持っている方も居ましたり、一度、入場したら、再入場のチェックの手間やトラブルを防ぐため、禁止されていましたり、出来る限りの事前のリスク・ヘッジに重きを割く、それでも、何かしら「問題は起きてしまう」というのも難渋なものです。

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昨日、今日と大阪の中心部は例の「都構想」を巡ります住民投票の最後のタームですから、サザンのライヴ目的以外の人たちの犇めきも凄かったですし、かなり前から決めていましたことでも、大きな世の中の出来事と奇しくもシンクロすることはあります。旅行でもそうですが、天気や災害、人災含めまして、「一日、日程ずらしていれば〜」みたいなもので、でも、そこまで管理できないから“面白い”訳で、綯交ぜに多様な感情を持ち、生き方をしている、してきた人が行き交う「土台」が都度、様相を変えているくらいのもので、ベースは変わらない、と言い切るには会場に向かう移動の車内の途中に見えた景色の中の立て看板を持った人たちも看過できず、「移動」から派生して、ライヴを観ながら、ふと、「モビリティ」について考えてもしまいました。

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昨今における「モビリティ」とは、ハーバード大学のラージ・チェッティの研究で注視されるようになったワードですが、「階級の間の流動性を指す符号」です。近年、生まれる環境によって子ども世代の努力対効果やある程度の成果が決まってしまう、というような研究が為されていますが、チェッティのモビリティへの示唆は地域間格差に触れました。世代間格差や生まれる親よりも出身地や教育を受けた場所。「親が何かと豊かで自由が効くならば、そこは変えられるのではないか」というのは野暮な設問で、流動自由性の高い仕事というのはかなり限定的で、同時に、家やコミュニティ依拠の問題を含めると、親も考えて、子供の生育地域を選びます。しかし、その生育地域の教育機関がどうなのか、その教育機関を取り巻く環境、セーフティネット、そこに通う子たちはどうなのか、となりますとより階層の固定が強まっている、と言えなくないところもあれば、ローンを組んで、学歴というシグナリングより、確たる教養、技術を学び、せめて可能性の選択肢を増やそうとしましても、例えば、アメリカの学生ローンは債務不履行になっても免除されなかったり、“学びのために、経済破綻する”不条理なケースも出ており、教育とは営利に依る部分も要りますが、多少の奉仕精神/非営利意識がないと成り立たない部分もあります。

「儲けるために、安定している生活を目指せるように、学びましょう。」というカリキュラムはそもそも、大学内レベルですることではないからで、それでも、教える側の評価経済もシビアになっているので、パフォーマンス・コストを換算して、教育と相応の仕事への契約基準が≒になってゆくと、“役に立つ一般教養“みたいな倒錯課目が出てきてしまうのも仕方ないのかもしれません。専門科目ではその先、向こう側に職業や公的資格があって、また、ゼミなりでは人的ネットワーク形成を行ない、総合的にある程度の教育機関は文化サロンとしての意味合いが深まり、サロンに入られる人は厳重になってゆくほどにサロンの都合がよくなるのも道理で、但し、サロン・カルチャーとは関係なく、知らないでいればずっと知らないでいられるものなので、また、ライヴ、コンサートとは相応のチケット代を払って基本、誰もが来られるものなので、全く比較できるものではないですが、別の意味での「モビリティ」とは融通がつかなくなってきているのではないか、というのは理論を越えまして、体感として少しあります。

フェスや大型的な複合イベントは対価性以外でも、運営側の多大なリスク・ヘッジ、保険掛け、コンプライアンスと参加側の満足度や効用関数が乖離しにくく、場を提供する、仕組み作りをしっかりする、そして、参加側のDIY性に委ねる領域を拡げつつ、多少の縛りを持ち込む。ディズニーランド、USJがあれだけ混雑していても、また、値上げしても、人が集まるのは訪れる価値が高いという参加側の意識以外に、設定された場や装置、規則性が与えてくれるひとときの時間への対効果が大きく、要は「行くことに意味がある」、「行ったら何かがある」という評判・価値経済の二点の交叉点をうまくリプレゼントできているのが一因でしょうし、加え、そういうところにはまた「資本」や「人材」もより集まってきますから、よりハイ・パフォーマンスな試みが出来るようになります。とはいえども、「ディズニーランドもUSJも興味も関係ないし、縁がないし、いいや。」という層も居ますから、ニッチ的に遊園地の場合ではハウステンボスひらかたパークみたく規模は決して大きく派手さはないものの、戦略的に成功をおさめていっているところも出てきています。

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想えば、一時期の大型ショッピング・モールの弊害より、カウンター的に大型ショッピング・モールと、近隣併存する堅実なスーパーの在り方や大型チェーン系の店に対峙するオルタナティヴな飲食店、喫茶店の存在の台頭、航続もじわじわと目立ってきたのも個人的に興味深いです。日曜日なり、「たまの休みだし、家族で映画やちょっと何か行こうか」、でモールに行くのはデフォルトとして、買い物難民にならないレベルで宅食的なサービスが急速に整備され、同時に日々の買い物は馴染みのスーパーに固定し、ちょっとした食事なりお茶では、「新しくできた、あそこのポルトガル料理店が美味しいんだよ。」みたいなことが以前より体感することが出てきましたが、そこも都市部・地方のみならず、モビリティが大きく関わってくるだけに、楽観的では勿論、居られません。適度な流動性のための橋は思ったより増えてきていますし、今の自身はドラッグストアや中古書店の乱立する街景に嘆息を投げるほどナイーヴではないのも確かです。何故ならば、歯の抜けた場に思わぬエラーが生まれるようになってきたのも感じるからで、そのエラーが当たると、「世の中はテクニカルじゃないんだな。」と安心するからでもあります。エラーといいますと言葉的には響きが悪いですが、これまでじゃ成立しなかったモデルが生成されてくる訳で、ある中小メーカーの経営者が「取り扱っている商品の中でも日傘が以前より売れるようになって、不思議なものですね。」というのを聞いたのはほんの近年で、そういえば、夏の屋外プールではラッシュガード前提になってきてもいますし、春から日傘を見ることも増えました。悪しくもオゾン層の破壊と紫外線の関係性が生活意識を変え、その意識に応じた商品が売れるようになるというのは枚挙にいとまがないのを認識します。

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また、「安かろう、悪かろう」などという引っ掛かりとは別に、TPOによってその安さは各自で独自設定し、しっかり払う。イベントで売っている、焼きそばが600円でも高いと想えないのはそういうことで、大型アミューズメントパークではそこに応じた商品、サービス提供設定を外縁から見たら、あざとく思えもしますが、内側に入ってしまえば、テンションがあがり、当初の予算を軽く越えてしまったりしてしまうもので、それは「悪いことではない」と思います。それぞれに「これ」という機会があり、機会費用を割く気概があるゆえに成り立つ市場は自分が知らないところで幾らでもあって、その市場を一見して「ブルーオーシャンで良いね。」と言えるには、当然にそんな安穏としたものではなかったりしますし、いつかは“透き通ったブルー”に見えていました海も不可視的に溶け込んでいる諸々はやはり考え込んでしまい、愁慮は尽きぬものです。並列状に胸には変容を遂げる未来絵図への期待も巡りながら。

HEART-LEAP

人それぞれには意識、無意識的にしろ、何らかの欠落的な何かがあり、それを埋め合わせる符合として多くの、依存性や意味文脈が援用される。例えば、「お酒を辞める」と気付くが、相変わらず日本は特殊な「飲酒」社会だなということで、適切な量を保つには勿論いいが、度を越し、“アルコール依存症”となると、れっきとした疾病で治癒も難渋なものであるのに、それを促進させるような仕掛け、トリガーとなるものが非常に多いのに気付きもする。父がお酒、特にビールの味が好きだったので、最初に、味を嘗めさせてもらったのは早かった。「よくこんな苦いものを嚥下できるなぁ。」と思いながら、大人になり、社会人になり、当時の重役にお好み焼屋で「社会に出るということは自分の酒量を分かる、ということだ。」みたいなことを滔滔と説諭された。右も左も分からない時期だったので、兎に角、“昼の素面”のときではなく、“その後の付き合い”が大きいのを知り、あれこれ色んな人にネオン街―今はぎらつきは減った、LED街なような気もするが―で出会い、すれ違い、ある時から宴席でのそれが最初とは違う意味で、美味しくなくなった。つまり、「酩酊依存のために、飲む」という病的な領域に入ってきたときに、シンクロして他の国、場所の状況論を再学する機会が増え、例えば、中国の「乾杯で飲み干す(減ってはきているが、やはり宴席ではいまだ多い)」場やドイツ人のビアホールでの佇まい、日々のストレス解消などに気圧されるように巻き込まれていく内に適量や節度が見えなくなりもした。何でも、周囲の補助、奉仕者の声で補強されるシステムと、補助者の奨めと自身の“気付き”のために、同じ状態の人の会合や、場合によっては病院に行く。そして、闘病記の交換や投薬、食事、運動療法などの類いで改めさせられる。ただ、「根治」しないケースはなんでも多い。人それぞれのパーソナリティや周辺環境に依拠せずとも。

しかし、アルコールに限らず、健康依存になる人も居れば、出世依存、家族依存など「依存」には良/悪は一概に判断しにくいものがある。依存も適度なら問題はないが、過度になると、どうにも病的になってしまう。病的になると、実際に「病気になる」ことも存外、出てくる。同時に、節度を踏まえ、健やかに寧ろ、ストイックに生きてきた人が早くに不慮の事態を迎えることもある。そんな二線を想いながら、「お天道様とは、どうにも残酷なものだ。」と教師の方と話をしていたら、今度は異常気象がデフォルトになって、運動会の設定日程に困っていたりする、と言う。「今までどおり、秋に行なったら、熱中症が出たので、夏の前に、と思ったら、また問題が起こって。」、と。「ふたつよいことさてないものよ」、という言葉はあるが、今や正論や大きな文字はそのまま「ひとつ、よいこと」として一方通行的に誤釈込みで流通してしまいもする。出世すると、周囲から妬みを買う、幸せ(そう)な構図に、冷笑を持ち込まれる。あらゆるシンプルな裏/表が在った時代から随分、遠くへ来た、なんて若年寄りみたいな話ではなく、それも「場合による」というだけで、わかりやすいことが即効性を与える時間は短い、くらいの構えでいいのだと思う。

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庶務でハラル関係のセミナーに出ていると、宗教的に禁じられているものの問題や倫理観など以外に、言語面で、英語は学ぶものではなく、前提のコミュニケーション・ツールとして最初からあって、人によってはマレー語、広東語などで細部のやり取りをしていることを再認識する。多民族社会の強みはそういった混ざり合った場所から這い上がってくる人の持つ熱量やテンションの異様な高さで、今の自分にとっては刺激になる。ただ、刺激物は余りに即効性があるので、引っ張られる何かも無論あるが、持続のための時間は短く、帰路で「うーん、ああいった人たちと同じフィールドで闘っていくのは厳しいな。」みたく自省したりする。ハングリー精神、知的ポテンシャル、敬虔な佇まい、数え上げればきりがないほど、勝てない要素は現前する。ただ、何度かそういった人たちと会うなり話なりしていると、「闘うのじゃなく、共携できるところがあるな。」と思うところが出てくる。ムスリムの肌荒れに気にしていた若い女性に植物油分の肌の手入れできる化粧水を薦めたことがあって、感謝された。そうすると、“気にしていたことに、気付いてくれた”ことから派生してささやかな悩みから、色んな知識や情報を教えてくれる。「日本は何よりクリーンで住みやすいし、皆、親切だけど、社会保障とか子供のことを考えると、住むのは将来、シンガポールが良いわ。」みたいな内容から多民族性への寛容、人種への認識論、自身の生まれた国の政治的状況など書割ではないことまで話になると、自分が多少、知っていただろう、また、視ている現実のその奥に当たり前だが、切実なまでの事情があるのに皮膚感覚として気付く。

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現在はアメリカに移住してしまった中国の知己は“海亀族(一時期、言われていたエリート層が欧米諸国に出て、また祖国に戻るというのを指した語句)”の中の一人だったが、「自分の育った国は愛しているけど、戻る必然を感じない」と云う。エドワード・サイードではないが、故郷の変性とは個々の潜在意識下でより曲折を迎えているのかもしれない。メリット・デメリット、愛憎入り混じったというだけではない、故郷を置きゆけば、昔懐かしき子守唄、伝承唄が妙に染みて聴こえるような、そんな子守唄、伝承唄を世界のどこで聴くのがいいのだろうか、想うときがある。落語で日本語の言い回し、大衆文化の機微がしみじみ染み入るのを感じるのとともに、ほんの僅か前まで寄り掛かっていた何かは呆気なく、終焉を迎え、崩壊していったり、崩壊したものに手を合わせつつ、恢復を希ったものの、再び訪れた際には、崩壊直後より惨状が極まっていたり、でも、「惨状とするのは他者性の中で築き上げたイメージの複写なんだよね。あそこには高度な教育施設が出来たけど、以前よりいいんだ。」とか、「元に戻ろうとしなくても、元はここで生きてきた人たちの中にあるから、今これからどうしてゆくか、で。」なんて言われると、なるほど、と考える。そこから、「たださ、問題は山積で…」と続くのも道理で。影を見つめ続けると、光の眩さに眩むが、逆も然り。

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そうなると、今の自分は“多少の、安息に依存している”といえるかもしれない。だから、落語を紐解いたり、薬膳を学んだり、身体の代謝機能を考える生活リズムを保ったり、どのチョコレートや甘味が美味しいのか比較してみたり、程よい有酸素運動のプログラム立てから、異言語生成への測位判定、日々刻刻の移ろいに身を任せては、新しい出会いや学びの愉しさに足るを識る。しかし、隣の芝生は青く映り、落ち込む事柄は多く、自己完結し得ない世の中の変化に憂いは尽きない。安息のときは余計なことを考えている暇はないが、でも、「安息にひと段落つく」と当たり前だが、難題は眼前に山積みされていることが土砂崩れのように一気に奔流してくる。但し、そうでないといけないのだと思う。180度、生き方を変える、なんてことは根源的にできなく、それでも、角度を変えて生きてゆくことで、それまでに無理に重く感じていた荷物の幾つかは不要なのは分かるようになってくる。生きているうちに行っておきたかったな、という場所に規制が掛かってしまった、危うい治安情勢になった、みたいなニュースや勧告に触れると、隔靴掻痒たる残念な気持ち以外に、別種の想像力も生まれ得ることをトレースする。何故ならば、不思議なもので、代替性として行きたい場がホログラムのように幾つも浮かんできたりもするからで、随分昔の自身なら足を運ぼうと思わなかったところに行くと、かかっていた重力の偏差が変わる。偏差はでも、相対的なもので、そこもいずれ行かなくなる可能性はあり、世の中が改変されれば、行けなくなる可能性もある。可能性は無限にあるが、無限の可能性がある訳ではない。運もあれば、自己機制だけでは届かないことを数えると、キリがないものの、昨日とは違う明日に挟まれた今日にかろうじて届く悠昔からの陽光に照応すると、静かに沈思しながらも、そろそろインクが切れかけのペンと併せて、馴染みのノートを新しく買わないと、という気になる。

DRIVING DELAYED SOUTH

最近、経済以外でもブラジルを含めた「南米」の名を見ることが増えたのを実感する。美術雑誌を捲れば、リオの対岸の街のニテロイの現代美術館のあの印象的なフォルムが入ってくる。ブラジリアン・モダニズムの象徴的存在たるオスカー・ニーマイヤーのそれこそ「空飛ぶ円盤」。恒常的なスモッグで夜間飛行の光さえそれっぽく想えてしまうだけに、ニーマイヤー建築の突端が改めて注目されるのは感慨をおぼえさえする。また、昨今の汎的な”〜リヴァイヴァル”を抜きにした“モダンネスの定義”がある種の、マジック・リアリズム的な気配をドーピング的に摂取した表現群が増え、染み入っている胎動にあえて接続してみたならば、登場人物が膨大に溢れるマルケスやボラーニョ、更にはホセ・ドノソなどのノヴェルで容赦なく畳み込まれるナラティヴの持つ強度、幻惑性とマッドなまでに切り詰められたリアリティへの怜悧なイロニーが「再編」されていっているのだな、というのと、この2015年という時代背景とのシンクは分からないでもない。要は、静止画でスロウにメタに楽しみましょう、ではなく、高速度カット・アップされた情報量の多い形而画をそのままの速度で「ベタ」にトリップ、サーフしましょう、って解釈に降りてみれば、(貨幣の側面ばかりじゃなく)何がインフレ化しているのか、考えれば、彩度数なのかもしれない、とかふと脳裏をよぎる。レンズ・フォーカスをあてて、何気なく撮って切り取って、さて、皆でシェア、と思ったその後に、「加工するときにグラデーションとか濃淡だよね。」などの次元の話ではなく、最近の隆盛のディレイ・ライヴみたいなもの。今、視ている人はまさしく「今」、アジャストしているが、表象側は1秒前どころか、5分、10分前の映像を刈り取ってライヴで配信している、というもの。だから、不謹慎な、というか、不穏当な、というか、そういった気配の立ち昇りを即座編集できるから、ライヴだけど、要は全くライヴではないとしたら、でも、そもそも、何万人単位の大きなイベントに行くと、ディレイドありきで「うた」が聴こえたりするし、今の時代の「ライヴ感」とは事前編集ありきなのかもしれない、としたら、音楽のライヴには限らず、ネタ、内容バレあり、セットリスト即時UP、なんて「但し書き」は“このはしわたるべからず”のようなものなのかも、など窮屈な想いまで膨らんでしまう。

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閑話休題。大学生の頃、リチャード・アシュクロフトの初ソロ・アルバムに準じたライヴに行ったとき、大阪のIMPホールでザ・ヴァーヴ時代の威光は日本にそこまで届いていなかったりもして、そこそこに快適な客入りでほぼ最前列で観たとき、ソロ・アルバムの曲の間にザ・ヴァーヴの曲をやったりして個人的に満足で、アンコールでも権利関係で―その権利関係といえば、『ローリング・ストーンズを経営する』って書籍が最近、翻訳され、音楽書コーナーではなく、ビジネス・コーナーに結構あったりで、「経営」って言葉が日本ではいまだ“大文字”なのだな、と想いもしつつ―骨組みだけの「Bitter Sweet Symphony」をやって去っていったのだが、落ちてたセットリストの紙を見れば、アンコールに他に「History」とかちゃんと書いてありつつ、実際のライヴでは見事に端折られていて、当時は今ほどネット・カルチャーの散逸速度が異様ではなかったりで、個人的に残念だな、とは思いつつ、ライヴってこういうそもそもこんな感じだな、という気持ちを持っていたので、何とはなしにいい記憶のひとつに格納されている。でも、そういう話の一つを20代とはいわず、10代の子たちに話をすると、「もったいないですね。」という反応をされて、不意をつかれることがある。勿体ない、MOTTAINAI、確かに時代を担ったタームだし、その時間を別のことにあてて置けばよかったのかな、くらいに感じつつ、よく聞くと「7,000円くらい払って、1時間ほどのライヴでしかも、そのセットリストを満喫できなかった」、コスト回収が“もったいない”という文脈を含んでいる子の声にも改めて気付き、「回収」は寧ろ、ディレイするからコスト・バランスが面白いのに、というのは歳を取った証左なのかもしれない、と考え込んでもしまう。関西商人の感覚で「元を取る」っていうのが遍在しているのが今の世界情勢の一端でデフォルトになっているのならば、これだけBETしたならば、相応のGAINを、という症例が増えすぎている困惑への適度なノーガードな在り方はもはや、旧世代の余裕と捉えてもいいのか、という気さえしてくる。「元」が底割れしているのに、総取り、乱獲しようとしたら、元さえなくなり、あったかどうかも藪の中に入ってしまう。そこで、MOTTAINAIに向かうのはこれだけ即座に無償、無料情報群にアタッチできるが、重要なことは選りすぐられた囲いの中で、何一つ手に入らなくなった状態が侵食していってる証左なのだな、と思いつつ、いつかの『脳内革命』ベスト・セラーの時代と『自律神経を整える』系の書籍が並べられる時代の不運(不幸じゃないので)に花を供えたくもなる。

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だからこそ、当然だが、何でも、そのテクスチュアをはかるときに、彩度測位のセンスがいるのは地層の層位を見るように紐解かないと、見えるものを視えなくしてしまうから、ディレイドされたライヴ感覚は元などなくていいと言うと、極論に過ぎるものの、後追いで知って、早く知っておけばよかったシンドローム的な何かは文明病を越えて、病名がつくべきだと私的に思うので、断捨離に倣わず、要らない情報群への脊髄反射が多すぎるのを律儀に受け取っている時間ほど無為性はないが、それは真に「無為ではなく」、無為ではないと想っている有為な試みに「無為だよね」という錯転が起きる相互反応の溝にはウェアラブル端末や健康管理アプリみたく、汗や動悸で「あなたは今、危険な状態です。」みたいな警告音が幻聴的に聞こえもする。ただ、ということは、嘆くばかりではなく、“危機意識”(これもまた、日本語特有の表現だが)の麻痺ではなく、例えば、既存の国家意識とは別に、BITNATION的なものがブロックチェーンを通じて安全弁を作成する可能性は存外、夢見事ではない感覚論など持っている人の指数は明らかに変わっているのかもしれない、とも思考飛躍がする次第。在り来たりな、中央に集中してゆく富や権力が〜というパースペクティヴ論は既存概念の旧弊性の中での「共通ターム」で、では、そのタームの中で地域通貨をやりましょう、というのはやっぱりどうにも機能不全に近い形になったのは、既存システムへの暗黙裡の盲従的なところがあったからで、とはいえど、非=中央集権性を求めるコミュニティのDIY性が「春を、迎える」にはまだ脆弱な社会システム論への歴史考証が足りていないともいえる。“これ”が“それ(何か)”と交換できる単位だと想えなくなってくる兆しに関しては“実在の銀行(銀行的な機関、また、単位でもいい)”が何を護ってくれるのか、管理してくれるのか、への距離感が出てきたり、これからより取り付け騒ぎみたいな出来事が現実に世界各地で起きていくと、貨幣論がどのように身体化してゆくのだろうか、という生成過程に興味深いところは大いにある。

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そこで翻って、散見される「南米」というタームもおそらくは、経済・政治・藝術・文化的にエントロピーが高いゆえに、アイキャッチが在るという文脈以外に、愈よ集合的な潜在意識に“亡命願望みたいな何か”がセット・インされてきているのかな、と私的に穿ちもしつつ、グローバリゼーション信仰退行下での集態願望までもポスト・コロニアル化が進捗した果てのいつぞやのネグリ=ハート的な「帝国」の影が前景化してしまうのは旧世代のスタンスなのかも、と我に返り、循環する。日本からは地理的には、実際は真裏の位置するのかもしれないが、「行こうと想えば、行ける場」で、想像力や知っていることで言えば、とても近ささえ感じる地域が南米、特にはブラジルというのは、日系移民の歴史を遡るまでもなく。例えば、1920年代終盤にピークを迎えた日本のブラジルへの移住とは華やかさばかりではないのは周知の通りだろう。ただ、その後、太平洋戦争を巡る、その中で起こった混乱期を経て、「養国」としての意味を確立していった短くない歴史の絵巻の深度を見ると、想うところは汲めども、尽きせず。

今や、夢想し、目指すべきは「地の果てへの旅」なのか、という感慨と、地の果てもそこに居れば、果てじゃないからして、日本が「果て」と想っている人たちの「日本ブーム」もコイントスなのかな、と気がしないでもないが、知らないことが犇めき合う場に敢えて挑むより、知っているものが混在する場に想像力をマップ(仮託)するようになったラベリング意識の変性の捻れ方の遠心力に妙にしみじみと老成した気分になってしまうのも道理なのは加齢のせいだけじゃない、とも。

旅人はときになぜか、あてどなく南へ向かうもので、南に行けば、北の生活は変わるのか、確信はなくても。

throughout crowding out

1)

ピケティからソロー・モデル、いわば、新古典派成長モデルに準じて、r、gが世界中で語られている流れは続き、同時に、止むを得なくも、生産体系に「労働」と「資本」の二種が大きな概念のまま、攪拌されてもいる。r(資本収益率)の中身は、過去なら土地や農地が主たるものにしか、なり得なかったが、今だと設備投資の規模のみならず、金融資本というものがあるゆえに、深く掘り下げないといけないものの、一般論として資本・資産の格差の是非がここまで問われるようになったのは、例えば、自助努力がどこまで可塑的に報われるか、教育投資が回収できるのか、みたいなミクロな部分での「持たざる層」の不安要素群に照度を高めた、くらいで、そこで起きる議論は「富める者がより富んでゆき、ネットワーク形成をしてゆく中で、再配分はよりされなくなる」、「高度専門職に就くより、資産家と密になる方が早い」みたいな紋切型のアフォリズムも有効的だが、経済学の中で足りなかった“情緒”的な要素を取り入れてみよう、そんな試みが世界中で漸く行なわれてきていることの方が面白い気がする。一時期は、行動心理学とマッシュアップした流れもあったが、どうも標本数の問題や行動心理と経済原理の結い目の綻びを理論的に「語る」には網目が大きすぎた気がする。

2)

例えば、2014年にノーベル経済学賞を取ったジャン・ティロールの提唱する「クラウディング・アウト」という効果は、人のインセンティヴ(動機付け)とは、決して経済的な報酬によって堅持される訳ではなく、自身への評判や価値の再確認に依拠する可能性が高いというもの。評判経済、価値経済については今更、マッピングするまでもないだろうが、簡単にいえば、経済的に多少、成功しても、個たるインセンティヴは下がってしまう状況があるという含み。よく個人投資家が若くして在り得ないほどの額を手にした、そんなドキュメンタリーがあるが、その実、幸せそうに見えないところがあったり、ベンチャー企業、ボランティア活動へ援助する、みたいな主体的アクションを取る際に、その個人投資家が置かれている環境とは、自分自身の積極的な自由を選んで、投資を始めたものの、そこでのインセンティヴには、他者性がまず欠けている場合がときにあり、その場合だと消極的にひきこもった自律的なインセンティヴが結果として、市場という拓かれたところでの判断によって、自立を促進されたとしたならば、自部屋で朝の9時からの取引時間に合わせて多くのディスプレイに向き合う行為とコストと、満員電車でも何でもいいが、通勤という行為と疲労、時間、コストを対比した際に、どちらがより社会的か、ということも言われるが、効果を生み出しているという意味では、相比しない。

ただ、視点を細部に変えて、先日、実際にワクチン還元されていないという報道で問題にもなっているが、自部屋にしろ、通勤途中にしろ、各々が飲んでいるペットボトルがあったら、「キャップだけを分けて、捨てることで、そのキャップが発展途上国の子供たちのワクチン費用になるから、せめて。」というのは主体的善意に平準化し、依拠する。無論のこと、キャップがちゃんとワクチン費用になっていけば、という「その後」の問題があるにしても、意識しないで捨てるよりは行為性に判断の留保が付いている。如何せん、それだとペットボトルよりもマイボトルでエコに、いや、そもそも、自分の所属する場での飲料を使った方が快適だ、ともなってくるがでも、クラウディング・アウトとは、「追い出し」という意味を指し示すように、必ずしも”合理的に動くことばかりが是ではない”ことを示唆する。待ち合わせの場に急ぐ際に、地図を広げて道に悩んでいる人がいて、「急いでいるから」と行けるのも道理だが、ちょっとした親切心で、道を教えてあげることをすれば、また、その行為がロスではないと想えるようになる母数が増えれば、社会の信頼度は高まってゆく。しかし、先述のペットボトルのキャップを分ける行為や道を教える行為を経済換算した途端、人間心理には「山っ気」が出てもしまう。社会的な暗黙の規律、法律があっても、ペットボトルのキャップを分ける、道を教える手間を「手間とは思わない」内はいいが、何らかの報酬が見込めるとなると、インセンティヴが低下してしまう、クラウディング・アウトが起きてしまうというシンプルな原則。となると、主体的な自由判断のためには倫理や善的行為の条件性があり、そこに「評価」の枠のレベル差が出てくる。小さくとも、何らかの「賞を(誰かから)貰う」というのは、金銭的インセンティヴよりその社会、または組織に認められたということが大きいのであり、それによって個々の積極的インセンティヴが刺激されたらば、底上げ的に規範も守られるようになってくるという往来も生まれる。ゆえに、「他方は違う文化倫理、規範でやっているから、わからないから放っておこう。」という無関心ではなく、非・関心が広まってゆくと、繋がっている経済市場の中でまさしくクラウディング・アウトすることが出てくる。

3)

”追い出される”という意味では、「幸せの選好条件性」にも注視と研究が集まってきている。幸福を巡る経済学的アプローチはまだまだこれからと言えるが、市場の中でどういった縛り、決まりを用いれば、そこに参入している人たちにより還元されてゆくのか、といった大きなモデルからもっと小規模なものまで。そもそも、横断的に考えゆくと、文明発展や経済成長が国家論として、世界的に幸福度数をあげる、という建前は今は少しどうなのか、となってきている訳で、「日本の幸福度は先進国の中でも極めて低い」とか「ブータンの幸福度は高い」とかの語句が耳に入る瀬の幸福研究とは、ブランクに近いところがあるのは確かで、有名なホイッグ史観では、進歩≒人間の幸せの単位尺度ではかられ、農耕、言語、印刷、多くのエネルギー開発、技術発展をしたことで、それを知らなかった世代の人たちより幸福になっていると考える。しかし、それは極論なのは言わずもがなで、農業革命、工業革命、情報革命によって、生活スタイルが否応なく変化させられた人たちや社会そのものが軋んだり、相応の負債として新たな疾病や災害を生むことになったのは自明の理といえる。適者生存とは言っても、ホイッグ史観に準じて幸福を考えてゆくと、取りこぼすものが多くなるのは「適者」が「生存」しても幸福だとは限らないケースが増えてきたからで、では、「(その社会状況における)不適者は生存できないのか、となると、そうでもない」という難しさが出てくるのは社会システムが高度化するほどに、それまでだと助けられなかった人たちがサルベージされるネットも生まれくる、要は直そうとする方法論がどんどん出てくる。それは悪いことではないが、では、その社会システムの保障に甘えようという意識が散見してくると、システム側の保障が厳密になりさえする。それを管理・被管理社会の論で語るのは長くなるので割愛するが、クラウディング・アウトされないインセンティヴを持てること、つまり、少し未来に希望的な何か、を「期待できる」要素が多いほど幸せになるのではないか、という概念が俎上に乗る。何に期待するのか、人によって千差万別で、今の仕事を維持し、家庭を保持していけたらいい、社会が治安よく、平和であればいい、病気にかからず、健康でいればいい、無限にあげられる。但し、問題になってくるのは「耐性」で、幸福論というのは非常に曖昧で、抽象的になってしまいがちで、或る人から見た或る社会の人たちは「こんなに十分な生活をしているのに、そんなに苦々しい顔をしているのだろう」と思う差異みたいなものを考えると、日本の先進国における幸福度の高さがどうとかはそのユニットで生きる人たちの掛ける「期待の束」をある程度は「可視化」した程度に過ぎないといえるものの、何でも「耐性」が生まれると、より高い幸福を、となるのはやむを得ず、即応性の高い、刺激的なものが多量提供されてゆくと、添加物の混じった幸福は純然物に戻るのはなかなか大変で、価値形成の礎として何を置くのか、より疎らに濃密に問われる瀬が今なのだと思うと、どうにも厄介なところと、余白として「再考」できる素材が多いのは恵まれている、という気が改めてする。追い出される(クラウディング・アウトの)対象の段階は、実のところ、どうなのだろう、と。

Sapiens: A Brief History of Humankind

Sapiens: A Brief History of Humankind

BLUR『The Magic Whip』―遊びの空間性

2012年のロンドン・オリンピックは世界中継もされ、多くの人が観たが、競技そのもの以外に、開会式の豪奢な演出などから金満主義という見方もあれば、パフォーマンスの高さを称賛する声もあった中、その閉幕イヴェントを担った或る意味でUKを代表するアクトのひとつ、ブラーのメンバー、デーモン・アルバーンは“オリンピック”という記号を通じた高度資本主義の塊に明らかな嫌悪感を示し、そこを通じて集う人たちのためにライヴをするんだ、という旨を述べていたが、結果、ハイド・パークの約8万人ものオーディエンスと分かち合った煌びやかな高揚感は多様な国旗群に混じった、英国のどこか旧態的なヘゲモニー性のイロニカルな補強のための残映が霞みもした。「London Loves」、「Jubilee」、「Sunday Sunday」といった『Modern Life Is Rubbish』、『Parklife』期の曲群の配置の仕方もそうだったが、ブラーが体現する一部はやはり、いまだクール・ブリタニアの残映が霞むのもやむを得ないことなのかもしれない。

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そうは言えど、グレアム・コクソンも完全に復帰参加して、オリジナル・メンバー作としてのアルバムでは約16年振りとなる『The Magic Whip』のジャケットは、チャイナタウンで見受けられる原色の電飾をモティーフにしたけばけばしさでラフに描かれており、クールとは程遠い。

The Magic Whip

The Magic Whip

しかし、LEDが発達し、コストが安く、淡く微妙な色合い、温度まで調整できるようになった瀬でも、中国やアジア諸国新興国で見受けられる、あのギラギラしたネオンにはどうしようもない危険で獰猛な生命力を感じさえするのとともに、以前、感じたものと違った個人的な安堵も得るようになったのは、スタイリッシュに機能性を増してゆく瀬にどぎつさは徒になってしまうからで、そういったネオンのままの過剰さより、効率的な過剰さが好まれる中で、ブラーのこの新作はジャケット・デザインを隠れ蓑に、まさに曖昧模糊(ブラー)なバランスの良さとソツのなさで巧みに遊び、ときに聴き手を緩く挑発するようで、興味深い。リード曲として発表された「Go Out」はローファイで力の抜けたギター・ロックで、MVとともに、意気込みより斜からのパースペクティヴが持ち込まれたもので、或る意味、キャリアと評価が十二分にあるバンドの遊びとも捉えられるかもしれない。50代に近くなった彼ら、または近年のデーモンの誠実な枯れ方、成熟は音楽的な幅でいえば魅惑を増していたともいえ、特に2014年の『Everyday Robots』の細やかな音響工作と小声のセンチメントは、ドノヴァン、ジミー・キャンベル辺りの英国SSWのメロウネス、ボン・イヴェール以降のUSインディーの波を受けながら、漣のような電子音の肌理にはポスト・ミニマル・ミュージックとしての美しさを帯び、内省的ながら、魅惑的な内容に帰一していた。

Everyday Robots

Everyday Robots

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『The Magic Whip』でも、ソロ作を血脈を継いだ、ミニマルで繊細な揺らぎが美しい曲も入っている。「New World Towers」、「Mirrorball」などは特にそうだろうか。

しかし、周知の人も多いだろうが、ブラーは膨大なセッションを行ない、そこから曲を練ってゆくということを過去から行なってきた。だから、アルバムごとにデモ曲のみならず、実験的なままで投げたような曲まで多数存在し、それらはシングルのBサイドやコンピレーション、スペシャル・エディションなどのたびに随時リリースされてきた。もちろん、判断としてアルバムとしての総体を纏める作業を行なっている訳で、1曲としての精度を高めるというより、セッションの度合が高まってきた1997年の『無題』以降は、ひとつのモダン・アートを眺めるような様相も孕んでいたのは確かで、いまだにライヴでのハイライトになるゴスペル「Tender」を冒頭に置いた1999年の『13』などはアルバムとしては相当、サイケデリックで支離滅裂といえなくもない。今回も、2013年の春のツアーの合間の休日を使って寄った香港の九龍でのレコーディングが元になっており、“精緻に詰める”というより、適度にラフに遊びを入れながら、あくまでブラー(という)、バンドとしての音にしようとしている、そんなところが強い。それでも、単曲で捉えるより、アルバムとしての纏まり、視角はいつになく良いと思う。「Lonesome Street」のリズムのハネ方やギターにはグレアムを感じるだろうし、毎作お馴染みといえるパンク・ソング「I Broadcast」には、彼ら四人の楽しそうに演奏している姿が映るだろう。個人的には、「Out Of The Time」に通じながら、セルジュ・ゲンスブール的な蠱惑性を持つ「My Terracotta Heart」にデーモンの黄昏れた色気と、今のブラーのアンサンブルの妙を特に感じた。そこで歌われる過ぎ去りし光景、感情。NMEのインタビューでは、グレアムが、デーモンとの長い関係性についての曲になるとは思わなかった、と述べているとおり、彼ら二人を示唆するような切ないフレーズが要所に巡る。

《I’m running out heart today》
《If something broke inside me,Cause at the moment I'm lost, a feeling that I don't know》

また、「Ghost Ship」は軽く体を揺らしてくれる80年代的なディスコ・サウンドで、そこに《Hong-Kong》という単語も小気味よく入り、香港というあのどうにもカオティックな街の風景が浮かんでくる。「Pyongyang」については、タイトル通り、デーモンが北朝鮮平壌を訪れたイメージを軸に、あくまで簡素にして、どこか物悲しさを醸している。その都市の内部に居続ける人たちの観る現実と外部から観た感覚は、噛み合うことはない。諍いが起きないように願おうにも、ほんのひとつの国境を越えるだけで、自分の培っていた判断、価値観が全く無化するなんてことはある。でも、それは逆も然りで、そこから「ここ」に来たら、どういうメカニズムで成り立っているのか、幾ら生活し、微に入り細を穿ち、馴染んでいっても、わからないだろう。「Pyongyang」を通じて、決して政治的なステイトメントを歌おうとしている訳ではなく、ぼんやりと不穏で、どこか彼岸的で安心する音像のなかで、聴き手の想像枠を広げる、そんな意味では、今作のブラーは、真摯たる大人としての節度がいつになく散見もされる。

今後の彼らのライヴ―特にワイト島フェスティバルでは楽しみだが―シンガロング、ハンドクラップを寄せるだろう「Ong Ong」といい、改めてアルバムで聴くリード曲の「Go Out」や、ここまで言及してきた“遊び”という語句には、もう少し正確な継句がいるのかもしれない。

ホイジンガの「遊び」の概念まで遡らずとも、遊びのモデルがメタ化する際の社会、共同体と呼ばれる何かが先に現今、編集、偏向されてしまっているとしたならば、という仮題を置くとして、そもそも、“先に何事も作り上げるより、遊び始めることが人間の文化的所作だったのではないか“と立ち返れば、『The Magic Whip』に通底する遊びの感覚(デ・ジャヴ)、同時に雨を降らすわけではないびっしりと纏わりついた鱗雲のように晴れない空のような(まるで冬のロンドンのような)ムード、耳に残るどこかチープなフレーズの反復とサイケデリア、程よく確保された「空間性」まで合点がゆく流れがみえてくる。切実に息苦しくない代わりに、鮮やかなな夢を見させてくれるなく、という―そこがブラー(の新作)を聴く2015年という位相なのだとも思いもするが、彼らがこうしたキャリアを重ねて、こうした作品をリリースするということ自体が興味深い。

HARCO『ゴマサバと夕顔と空芯菜』を巡って

2012年にノーベル経済学賞をマッチング・プログラムの作成、制度への応用などにおいて評価され、受賞したアルビン・ロスは「市場」という暗黙の前提に疑義を呈す。既に市場はそこにあって、決まった言語で話せば“いいようになっている”が、実のところ、特定された人たちの言語の強制力が幅を効かせ、市場とは付随していう傾向があるとのことで、市場で取引される言語は誰のものか、というと、ひどく絞られてしまうきらいがある。投資で食べている人が居て、よくニュースでピックされるものの、その人たちが関わる金融市場では凄まじい速度が優先されている。そして、“人たち”という間接句も不必要になっているくらいオート・プログラミングしておけるから、適切な判断をくだす時間の是非より、決裁の速度が誰よりも早いか、で原理が最適化されてしまう。規律が厳重に網目正しく張り巡らされるほどに、自分が望む取引手段が市場には見つからない、それは道理で、限定された言語で刈り取られた市場が帰一していこうとする全体性を見ても、スペックがずれる。

ならば、自身の選好としてこれくらいの条件を、というものをあてがってゆくと、徐々に同じような選好を持った人たちが似て非なる言語を持ち寄って、「その、見ていた市場とは違う市場あるよ。」となる。場、区域によっては不適合でも、場、区域によっては“何ら問題ない”のは自明の理として、新たに勃興し続ける力は絶対性を帯びる訳ではなく、こうしないといけない、みたいなセオリーとは逆進性を帯びるくらいにヒトの歩幅とは緩やかな自由さがあるくらいに。

南極大陸で 明日から暮らします
何もかも置いてきて 荷物はゼロです》

(「南極大陸」)

南極大陸で―明日から―暮らすこと、は実質、ほぼ不可能に近い。それでも、意識の変性の中ではとても容易に適う。HARCOというアーティストは過去から、ファンタジーと現実の間合いの中をポップに泳いできた。幾つものCMソングやその中でも「世界でいちばん頑張っている君に」という衒いのない大きな歌を知っている人や、NHKみんなのうたの声で馴染んでいる人は多いと思うが、キャリアを鑑みると、寧ろ、トッド・ラングレンブライアン・ウィルソンのような少しマッドなサウンド・クリエイター、職人としての側面が強く、同時に、多彩で怜悧なセンスは昨今のシティ・ポップの中の先達的な存在ともいえる。ただ、その器用貧乏ともいえる活動内容そのものをして、彼の評価をうまく巷間に伝わっていなかったのかもしれない。個人的に、2004年『Etholgy』からのミニ・アルバム三部作における彼固有のカオティックなサウンド・センスの開花の軌跡には特に昂揚したが、その後も、HARQUAでの活動、09年の『tobiuo piano』におけるピアノを軸にした果敢な試み、東日本大震災を受けたチャリティー・ソングの「がれきのれきし」も他のチャリティー・ソングとはまた違った(作詞は違うものの)彼の感覚が垣間見えるものとして、興味深く追っていた。

そして、サントラや色んな作品のリリースはあったので、そんな間隔を感じなかったものの、どこか漂然と、身軽な佇まいを持った、しかし、実に五年振りとなるオリジナル・フル・アルバム『ゴマサバと夕顔と空芯菜』がとても良く、2015年にこういった温度の作品をリリースできるアティチュードに持ち上げられもする。冒頭からのアルビン・ロスの話に依拠すると、同じ人が同じ風景を観続ける以外に、こういったデザインをしてみた風景もあるよ、と示しているかのようで、堀込奉行、杉瀬陽子あがた森魚といったゲスト参加も功を奏して、柔らかく、暖かく、どこかとぼけたような雰囲気が漂っている。故・大滝詠一氏が極上のポップスから音頭までを跨いだ轍を追うように、エレファント6界隈を思わせる音からカート・ベッチャー系譜のソフト・ポップ、インタビューでも名を出していたノルウェーのソンドレ・ラルケに通じるサウンドメイクから、と、11篇の良質な短編小説集みたく、じんわり聴後に残る。

1曲目にしてタイトル曲「ゴマサバと夕顔と空芯菜」のMVはどこかオリエンタルな曲調と合わせてか、ラオスビエンチャンルアンパバーンでの何気ないショットが繋がれており、遺産、市場の人たち、河、映える緑、雄大な自然、夕日、書店、街の中から無声の生命力が聞こえてくる。

《夏のゴマサバに 空芯菜をのせたら 夕顔咲いた》

そのまま、清冽なギターの音色が美しいポップ・ソング「カメラは嘘をつかない」は一転、切なく叙情的な横顔を映す。この2曲みたく、アルバムの中でも“緊張と緩和”とは平易な表現になるが、シリアス過ぎない、牧歌的過ぎない場を往来する。そもそも、今や誰でも眼前を写真に簡易におさめたあとに、瞬間的に加工できる瀬で、リアルとは何かという問い自体が渋滞する。膨大な写真共有サイトにあげられた痕跡は決してフェイクじゃなく、幾ら加工されていたとしても、何らかの瞬間、息吹は切り取っている。一日中、憂鬱なことばかり考えて過ぎるばかりではなく、昼に食べたパスタの味で重たい気分が不意に霧消もしたりする。行きつ戻りつ、すこしずつ時間は感情の機微とともに流れるように。

絵本を捲るような楽しいインストゥルメンタル「TIP KHAO」や、優美な「星に耳を澄ませば」という曲には、彼の子供の笑い声が入っていたり、気骨とウィットに富んだ「I don’t like」など聴きどころは尽きないが、ベースには規定、特定化される市場とは違う導線での情景の束を還す要所に効いた小技と、相比する、伸びやかなはみ出し方があり、そこにとても安心もする。

ゴマサバと夕顔と空心菜

ゴマサバと夕顔と空心菜