DRIVING DELAYED SOUTH

最近、経済以外でもブラジルを含めた「南米」の名を見ることが増えたのを実感する。美術雑誌を捲れば、リオの対岸の街のニテロイの現代美術館のあの印象的なフォルムが入ってくる。ブラジリアン・モダニズムの象徴的存在たるオスカー・ニーマイヤーのそれこそ「空飛ぶ円盤」。恒常的なスモッグで夜間飛行の光さえそれっぽく想えてしまうだけに、ニーマイヤー建築の突端が改めて注目されるのは感慨をおぼえさえする。また、昨今の汎的な”〜リヴァイヴァル”を抜きにした“モダンネスの定義”がある種の、マジック・リアリズム的な気配をドーピング的に摂取した表現群が増え、染み入っている胎動にあえて接続してみたならば、登場人物が膨大に溢れるマルケスやボラーニョ、更にはホセ・ドノソなどのノヴェルで容赦なく畳み込まれるナラティヴの持つ強度、幻惑性とマッドなまでに切り詰められたリアリティへの怜悧なイロニーが「再編」されていっているのだな、というのと、この2015年という時代背景とのシンクは分からないでもない。要は、静止画でスロウにメタに楽しみましょう、ではなく、高速度カット・アップされた情報量の多い形而画をそのままの速度で「ベタ」にトリップ、サーフしましょう、って解釈に降りてみれば、(貨幣の側面ばかりじゃなく)何がインフレ化しているのか、考えれば、彩度数なのかもしれない、とかふと脳裏をよぎる。レンズ・フォーカスをあてて、何気なく撮って切り取って、さて、皆でシェア、と思ったその後に、「加工するときにグラデーションとか濃淡だよね。」などの次元の話ではなく、最近の隆盛のディレイ・ライヴみたいなもの。今、視ている人はまさしく「今」、アジャストしているが、表象側は1秒前どころか、5分、10分前の映像を刈り取ってライヴで配信している、というもの。だから、不謹慎な、というか、不穏当な、というか、そういった気配の立ち昇りを即座編集できるから、ライヴだけど、要は全くライヴではないとしたら、でも、そもそも、何万人単位の大きなイベントに行くと、ディレイドありきで「うた」が聴こえたりするし、今の時代の「ライヴ感」とは事前編集ありきなのかもしれない、としたら、音楽のライヴには限らず、ネタ、内容バレあり、セットリスト即時UP、なんて「但し書き」は“このはしわたるべからず”のようなものなのかも、など窮屈な想いまで膨らんでしまう。

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閑話休題。大学生の頃、リチャード・アシュクロフトの初ソロ・アルバムに準じたライヴに行ったとき、大阪のIMPホールでザ・ヴァーヴ時代の威光は日本にそこまで届いていなかったりもして、そこそこに快適な客入りでほぼ最前列で観たとき、ソロ・アルバムの曲の間にザ・ヴァーヴの曲をやったりして個人的に満足で、アンコールでも権利関係で―その権利関係といえば、『ローリング・ストーンズを経営する』って書籍が最近、翻訳され、音楽書コーナーではなく、ビジネス・コーナーに結構あったりで、「経営」って言葉が日本ではいまだ“大文字”なのだな、と想いもしつつ―骨組みだけの「Bitter Sweet Symphony」をやって去っていったのだが、落ちてたセットリストの紙を見れば、アンコールに他に「History」とかちゃんと書いてありつつ、実際のライヴでは見事に端折られていて、当時は今ほどネット・カルチャーの散逸速度が異様ではなかったりで、個人的に残念だな、とは思いつつ、ライヴってこういうそもそもこんな感じだな、という気持ちを持っていたので、何とはなしにいい記憶のひとつに格納されている。でも、そういう話の一つを20代とはいわず、10代の子たちに話をすると、「もったいないですね。」という反応をされて、不意をつかれることがある。勿体ない、MOTTAINAI、確かに時代を担ったタームだし、その時間を別のことにあてて置けばよかったのかな、くらいに感じつつ、よく聞くと「7,000円くらい払って、1時間ほどのライヴでしかも、そのセットリストを満喫できなかった」、コスト回収が“もったいない”という文脈を含んでいる子の声にも改めて気付き、「回収」は寧ろ、ディレイするからコスト・バランスが面白いのに、というのは歳を取った証左なのかもしれない、と考え込んでもしまう。関西商人の感覚で「元を取る」っていうのが遍在しているのが今の世界情勢の一端でデフォルトになっているのならば、これだけBETしたならば、相応のGAINを、という症例が増えすぎている困惑への適度なノーガードな在り方はもはや、旧世代の余裕と捉えてもいいのか、という気さえしてくる。「元」が底割れしているのに、総取り、乱獲しようとしたら、元さえなくなり、あったかどうかも藪の中に入ってしまう。そこで、MOTTAINAIに向かうのはこれだけ即座に無償、無料情報群にアタッチできるが、重要なことは選りすぐられた囲いの中で、何一つ手に入らなくなった状態が侵食していってる証左なのだな、と思いつつ、いつかの『脳内革命』ベスト・セラーの時代と『自律神経を整える』系の書籍が並べられる時代の不運(不幸じゃないので)に花を供えたくもなる。

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だからこそ、当然だが、何でも、そのテクスチュアをはかるときに、彩度測位のセンスがいるのは地層の層位を見るように紐解かないと、見えるものを視えなくしてしまうから、ディレイドされたライヴ感覚は元などなくていいと言うと、極論に過ぎるものの、後追いで知って、早く知っておけばよかったシンドローム的な何かは文明病を越えて、病名がつくべきだと私的に思うので、断捨離に倣わず、要らない情報群への脊髄反射が多すぎるのを律儀に受け取っている時間ほど無為性はないが、それは真に「無為ではなく」、無為ではないと想っている有為な試みに「無為だよね」という錯転が起きる相互反応の溝にはウェアラブル端末や健康管理アプリみたく、汗や動悸で「あなたは今、危険な状態です。」みたいな警告音が幻聴的に聞こえもする。ただ、ということは、嘆くばかりではなく、“危機意識”(これもまた、日本語特有の表現だが)の麻痺ではなく、例えば、既存の国家意識とは別に、BITNATION的なものがブロックチェーンを通じて安全弁を作成する可能性は存外、夢見事ではない感覚論など持っている人の指数は明らかに変わっているのかもしれない、とも思考飛躍がする次第。在り来たりな、中央に集中してゆく富や権力が〜というパースペクティヴ論は既存概念の旧弊性の中での「共通ターム」で、では、そのタームの中で地域通貨をやりましょう、というのはやっぱりどうにも機能不全に近い形になったのは、既存システムへの暗黙裡の盲従的なところがあったからで、とはいえど、非=中央集権性を求めるコミュニティのDIY性が「春を、迎える」にはまだ脆弱な社会システム論への歴史考証が足りていないともいえる。“これ”が“それ(何か)”と交換できる単位だと想えなくなってくる兆しに関しては“実在の銀行(銀行的な機関、また、単位でもいい)”が何を護ってくれるのか、管理してくれるのか、への距離感が出てきたり、これからより取り付け騒ぎみたいな出来事が現実に世界各地で起きていくと、貨幣論がどのように身体化してゆくのだろうか、という生成過程に興味深いところは大いにある。

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そこで翻って、散見される「南米」というタームもおそらくは、経済・政治・藝術・文化的にエントロピーが高いゆえに、アイキャッチが在るという文脈以外に、愈よ集合的な潜在意識に“亡命願望みたいな何か”がセット・インされてきているのかな、と私的に穿ちもしつつ、グローバリゼーション信仰退行下での集態願望までもポスト・コロニアル化が進捗した果てのいつぞやのネグリ=ハート的な「帝国」の影が前景化してしまうのは旧世代のスタンスなのかも、と我に返り、循環する。日本からは地理的には、実際は真裏の位置するのかもしれないが、「行こうと想えば、行ける場」で、想像力や知っていることで言えば、とても近ささえ感じる地域が南米、特にはブラジルというのは、日系移民の歴史を遡るまでもなく。例えば、1920年代終盤にピークを迎えた日本のブラジルへの移住とは華やかさばかりではないのは周知の通りだろう。ただ、その後、太平洋戦争を巡る、その中で起こった混乱期を経て、「養国」としての意味を確立していった短くない歴史の絵巻の深度を見ると、想うところは汲めども、尽きせず。

今や、夢想し、目指すべきは「地の果てへの旅」なのか、という感慨と、地の果てもそこに居れば、果てじゃないからして、日本が「果て」と想っている人たちの「日本ブーム」もコイントスなのかな、と気がしないでもないが、知らないことが犇めき合う場に敢えて挑むより、知っているものが混在する場に想像力をマップ(仮託)するようになったラベリング意識の変性の捻れ方の遠心力に妙にしみじみと老成した気分になってしまうのも道理なのは加齢のせいだけじゃない、とも。

旅人はときになぜか、あてどなく南へ向かうもので、南に行けば、北の生活は変わるのか、確信はなくても。