Mobility Fixing Structure

サザンのライヴに行ってきました。ライヴ・レポートはまた機会がありましたら、ということで、関係のないことも含めまして徒然と。サザン名義としましては、約10年振りのオリジナル・アルバム『葡萄』のセールスも順調で、古参のファンから新規のリスナーも巻き込んで、より装置性を増しながら、続けてきた強みに勝てるものはなく、クラシカルと呼べるべき演出、歌の数々から今の技術を折衷させた間域を往来しながら、破綻はしない、もはや、移動遊園地のような3時間半ほどの大規模な調性の取れたどこか、アンチ・モダンネス的なステージングでした。侘び寂びを大事にした、といいましょうか。過度といえるほど丁寧なまでに多くの時間と曲をかけて、運んでゆく様は流石だな、とさえ。客層は中高年の方が多く、家族連れも多かったです。そして、「新しく、何でも知ることができる」ハードルが下がり、“好奇心一つ”で跨げる敷居が下がり、自分の好きなアーティスト沿いに辿ってきたりするのも容易になったりで、若い子たちの集団も沢山居て、周辺には無邪気な“景気の良さ”が溢れ、グッズ売り場から近隣の店の繁盛まで覗きながら、自身としては「経済効果のトリクルダウン」を考えつつ、ただ、今は入場の際にID認証や身分証明書が当たり前になってきていますので、ふと来て、当日券で、とか、もっと言えば、いわゆる、ダフ屋さんがウロウロしていました風景とは「昔話」になっていくのかな、という気もしました。

オークションなどで、チケットが高値で転売されましたり、ダフ屋さんから買うというのはやはりいけない行為ではありますものの、コンプライアンスという概念がどんどんメタ化していっているのは感じもします。明らかに、グレーな人たちがコンサートでも何でも会場前でウロウロしていて、開演時間が迫ってきますと、途端に二束三文でも声を掛けまくる姿や、ときに中で渋々観ていた人がさっき居た人だ、なんてのは牧歌的なものなのかもしれず。露店でもそうですし、ある日、突然生まれるたこ焼き屋台、から揚げ屋台、カステラ屋台などは「粋」でいまだに寺社仏閣の途中でも見入ってしまうのですが、「しっかりしたところで、お金を落としましょう」みたく、そういう光景は未だあるにしましても、手軽な喫茶店、居酒屋、ファミレスなどで待機される人たちのキチンとした佇まいはとても律儀で、律儀にグッズなどを写真におさめたり、予め約束しておいた人たちとの対話に花を咲かせる、根本的に変わらないものがあるので、何でも「素地」があって、その上で、光量の高い対象物へのアフォーダンスを拒まない姿勢というのは決して悪くなく、続いてゆくのでしょうが、並列的に、“一見さん”よりコアなファンを囲い込んで、帯同させていった方がビジネス・モデルとして非常に効率が良いので、今はある人の、ある物の、ある場所の、ある店の、ファンという反動が生まれてきている性質への逆進的な流動性を是としたマーケティング・サイドのマトリックスは編みにくいのかもしれないな、とも思慮さえします。

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比較的、安価なチェーン系の牛丼店やファミレスでも、ターゲットは大学生やサラリーマンのここら、って主ベースを置いていた過去からしますと、データを取れば、シニア世代のヴォリューム・ゾーンが侮れなくなっている、なんてのは経営者サイドもよく言われますが、難しいのはそのシニア世代が「常宿」にするかどうかとなりますと、そこは読めない訳です。たまたま、有志との歩く会、集まりのついでにその店を使ったり、また、シニア世代は組織をリタイアされていたりするケースが多分にありますから、リピート率まで考えますと、ビジネス街での昼間のランチみたく、ある程度の投資コストから回収までのサイクルが見えにくいのもあるでしょう。ただ、三人の若者が500円ずつで1,500円を、よりは、一人の高齢の方が2,000円を、という方策は「誰も」が考えることでしょう。中長期的に見れば、前者の三人の若者の内、全員と言わなくても、一人でもリピーター、またはコアなリピーターになれば、一回あたり500円でも、堅実で優良な顧客になります。後者だと、パターニズムが「読めない」ですがしかし、仲間を呼んだり、ときに家族を呼んだりできる時間や財力、ネットワークを持っているケースがあります。そこで、利益率が高いアルコール類や小品を導入しよう、メニューをもう少し細分化させよう、とか、でも、飲酒運転は勿論、駄目だから、運転代理サービス業と契約しよう、公共交通機関の時刻調整や周辺の飲食店などとのバランスを精査しよう、などと複合的な視点で考えゆきますと、24時間営業より朝早く、夜遅く、で店員の数をこれだけにして、みたく、ポスト・フォーディズム的効率性がよりシェイプされることになります。コンプライアンスには、カスタマーサービス、ホスピタリティというものが漏れなくついてきますし、何かが起きた際の対応如何ではブランド・イメージが一気に下落し、回復が艱難になってしまいます瀬ゆえに、よりナイーヴに慎重な敷居設定をするとなりますと、やはり鑑みますに、相応の対価を払いますコンサートといった催しにもID認証が要るようになるのも仕方ないのでしょう。このたびもパスポートを持っている方も居ましたり、一度、入場したら、再入場のチェックの手間やトラブルを防ぐため、禁止されていましたり、出来る限りの事前のリスク・ヘッジに重きを割く、それでも、何かしら「問題は起きてしまう」というのも難渋なものです。

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昨日、今日と大阪の中心部は例の「都構想」を巡ります住民投票の最後のタームですから、サザンのライヴ目的以外の人たちの犇めきも凄かったですし、かなり前から決めていましたことでも、大きな世の中の出来事と奇しくもシンクロすることはあります。旅行でもそうですが、天気や災害、人災含めまして、「一日、日程ずらしていれば〜」みたいなもので、でも、そこまで管理できないから“面白い”訳で、綯交ぜに多様な感情を持ち、生き方をしている、してきた人が行き交う「土台」が都度、様相を変えているくらいのもので、ベースは変わらない、と言い切るには会場に向かう移動の車内の途中に見えた景色の中の立て看板を持った人たちも看過できず、「移動」から派生して、ライヴを観ながら、ふと、「モビリティ」について考えてもしまいました。

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昨今における「モビリティ」とは、ハーバード大学のラージ・チェッティの研究で注視されるようになったワードですが、「階級の間の流動性を指す符号」です。近年、生まれる環境によって子ども世代の努力対効果やある程度の成果が決まってしまう、というような研究が為されていますが、チェッティのモビリティへの示唆は地域間格差に触れました。世代間格差や生まれる親よりも出身地や教育を受けた場所。「親が何かと豊かで自由が効くならば、そこは変えられるのではないか」というのは野暮な設問で、流動自由性の高い仕事というのはかなり限定的で、同時に、家やコミュニティ依拠の問題を含めると、親も考えて、子供の生育地域を選びます。しかし、その生育地域の教育機関がどうなのか、その教育機関を取り巻く環境、セーフティネット、そこに通う子たちはどうなのか、となりますとより階層の固定が強まっている、と言えなくないところもあれば、ローンを組んで、学歴というシグナリングより、確たる教養、技術を学び、せめて可能性の選択肢を増やそうとしましても、例えば、アメリカの学生ローンは債務不履行になっても免除されなかったり、“学びのために、経済破綻する”不条理なケースも出ており、教育とは営利に依る部分も要りますが、多少の奉仕精神/非営利意識がないと成り立たない部分もあります。

「儲けるために、安定している生活を目指せるように、学びましょう。」というカリキュラムはそもそも、大学内レベルですることではないからで、それでも、教える側の評価経済もシビアになっているので、パフォーマンス・コストを換算して、教育と相応の仕事への契約基準が≒になってゆくと、“役に立つ一般教養“みたいな倒錯課目が出てきてしまうのも仕方ないのかもしれません。専門科目ではその先、向こう側に職業や公的資格があって、また、ゼミなりでは人的ネットワーク形成を行ない、総合的にある程度の教育機関は文化サロンとしての意味合いが深まり、サロンに入られる人は厳重になってゆくほどにサロンの都合がよくなるのも道理で、但し、サロン・カルチャーとは関係なく、知らないでいればずっと知らないでいられるものなので、また、ライヴ、コンサートとは相応のチケット代を払って基本、誰もが来られるものなので、全く比較できるものではないですが、別の意味での「モビリティ」とは融通がつかなくなってきているのではないか、というのは理論を越えまして、体感として少しあります。

フェスや大型的な複合イベントは対価性以外でも、運営側の多大なリスク・ヘッジ、保険掛け、コンプライアンスと参加側の満足度や効用関数が乖離しにくく、場を提供する、仕組み作りをしっかりする、そして、参加側のDIY性に委ねる領域を拡げつつ、多少の縛りを持ち込む。ディズニーランド、USJがあれだけ混雑していても、また、値上げしても、人が集まるのは訪れる価値が高いという参加側の意識以外に、設定された場や装置、規則性が与えてくれるひとときの時間への対効果が大きく、要は「行くことに意味がある」、「行ったら何かがある」という評判・価値経済の二点の交叉点をうまくリプレゼントできているのが一因でしょうし、加え、そういうところにはまた「資本」や「人材」もより集まってきますから、よりハイ・パフォーマンスな試みが出来るようになります。とはいえども、「ディズニーランドもUSJも興味も関係ないし、縁がないし、いいや。」という層も居ますから、ニッチ的に遊園地の場合ではハウステンボスひらかたパークみたく規模は決して大きく派手さはないものの、戦略的に成功をおさめていっているところも出てきています。

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想えば、一時期の大型ショッピング・モールの弊害より、カウンター的に大型ショッピング・モールと、近隣併存する堅実なスーパーの在り方や大型チェーン系の店に対峙するオルタナティヴな飲食店、喫茶店の存在の台頭、航続もじわじわと目立ってきたのも個人的に興味深いです。日曜日なり、「たまの休みだし、家族で映画やちょっと何か行こうか」、でモールに行くのはデフォルトとして、買い物難民にならないレベルで宅食的なサービスが急速に整備され、同時に日々の買い物は馴染みのスーパーに固定し、ちょっとした食事なりお茶では、「新しくできた、あそこのポルトガル料理店が美味しいんだよ。」みたいなことが以前より体感することが出てきましたが、そこも都市部・地方のみならず、モビリティが大きく関わってくるだけに、楽観的では勿論、居られません。適度な流動性のための橋は思ったより増えてきていますし、今の自身はドラッグストアや中古書店の乱立する街景に嘆息を投げるほどナイーヴではないのも確かです。何故ならば、歯の抜けた場に思わぬエラーが生まれるようになってきたのも感じるからで、そのエラーが当たると、「世の中はテクニカルじゃないんだな。」と安心するからでもあります。エラーといいますと言葉的には響きが悪いですが、これまでじゃ成立しなかったモデルが生成されてくる訳で、ある中小メーカーの経営者が「取り扱っている商品の中でも日傘が以前より売れるようになって、不思議なものですね。」というのを聞いたのはほんの近年で、そういえば、夏の屋外プールではラッシュガード前提になってきてもいますし、春から日傘を見ることも増えました。悪しくもオゾン層の破壊と紫外線の関係性が生活意識を変え、その意識に応じた商品が売れるようになるというのは枚挙にいとまがないのを認識します。

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また、「安かろう、悪かろう」などという引っ掛かりとは別に、TPOによってその安さは各自で独自設定し、しっかり払う。イベントで売っている、焼きそばが600円でも高いと想えないのはそういうことで、大型アミューズメントパークではそこに応じた商品、サービス提供設定を外縁から見たら、あざとく思えもしますが、内側に入ってしまえば、テンションがあがり、当初の予算を軽く越えてしまったりしてしまうもので、それは「悪いことではない」と思います。それぞれに「これ」という機会があり、機会費用を割く気概があるゆえに成り立つ市場は自分が知らないところで幾らでもあって、その市場を一見して「ブルーオーシャンで良いね。」と言えるには、当然にそんな安穏としたものではなかったりしますし、いつかは“透き通ったブルー”に見えていました海も不可視的に溶け込んでいる諸々はやはり考え込んでしまい、愁慮は尽きぬものです。並列状に胸には変容を遂げる未来絵図への期待も巡りながら。