ありあまる、実存

時おり昭和時代とまではいかないですが、昔のラジオなどの音源を聴いていますと、アナウンサーやナレーションの方のテンポが「遅い」と思ってしまうときがあります。ただ、よくよく考えますと、今の時代のテンポに慣れてしまっているのかもしれないとも我に返ります。元NHKでディレクターをされていました志村建世氏の過去のブログ記事によりますと、アナウンス原稿が1分300字だったのが08年の時点では350字ほどになっていると指摘されています。(※参照:志村建世のブログ : 現代人の早口」)情報量を捌くための時間対効果が鋭角的になったという見方もできますし、テンポよくカット・アップ的にシーン・チェンジさせていかないと、受容者はすぐに飽きてしまうという仕掛ける側の事情もあるかもしれません。

膨大な情報量を日々刻刻、キャッチアップするほど、有用な情報はそう溢れている訳ではなく、勿論、人それぞれの「有用」とは違いますが、あまりに高速度で行き交う言葉や感情論に金属疲労のような感情をおぼえたことはあるのではないでしょうか。「スマホがないと、SNSを使っていないと仲間外れにされる」と知り合いの母たる友人に言っていた小学生の子が居ましたが、その内部で行なわれている外側で成り立つ関係性の力学の在り様を物語っているのでしょう。一緒に遊んだりした後に、「また、明日。」と手を振った後に、夜中にやり取りされている仲間内のSNSやオンライン・ゲームなどのサークルで行なわれる何かに疎外をおぼえることで、翌朝の現実の教室の空気感が変わっている、ともあるのかもしれません。何でもそうですが、今は即座に何かに「反応しないといけない」ような、オブセッシヴなまでのコンプライアンス、公正倫理の名を借りた奇妙なムードが自明の理として通底していたりして、“ニュースの見出し“の数秒後には驚くように色んなコメントや反応が並ぶのを目にしますと、また、「短く、巧く言えている人」に評価が集まっているのを見ますと、いつぞやによく援用されましたラザースフェルトのオピニオンの二段階流れ説みたいな社会学の概念の変容は言わずもがなのでしょう。

私以外は、景色でしかない報われなさ)

更には、世論調査などで使われます「世論」、もっと敷衍しますと、「世間」というのは今はより不気味な何かを指して何も差さない惹句になっている気がします。異国の方に「世間」という言葉を説明する際に苦労しないでしょうか。「社会」でもなく、「所属する共同体」のことでも精緻には違う。ただ、日本では「世間様に申し訳がたたないから。」、「世間体を考えて。」という言葉が当たり前のように用いられます。村社会での名残を指すというより、親族関係や地域コミュニティが密な紐帯で結ばれていましたときに、ある程度、仮定して世間の先には浮かぶ顔はあったのでしょうが、今の「〇〇が許しても、世間は許さない」といいました類いのファッショな紋切型の言い方はどうにも居心地の悪さをおぼえてしまいます。だから、影響力といいましょうか、発言の力の強い方たちの言葉には注釈であくまで、個人の見解です、や、持論を展開した、というエクスキューズが増えてゆくばかりで、言論の自由とは何なのかより、不自由に正論を言う的確な能力のスキルの高い人のアンテナが気になってしまいます。何故ならば、極論、暴論を言う人より、そういったバランス感覚のいい人が行間に匂わせるものの方に魅かれるものがあるからです。作家の福田恆存氏が『人間・この劇的なるもの』という著書の中で以下の事を述べていました。

人が自由という観念におもいつくのは、安定した勝利感のうちにおいてではない。個性というものを、他者よりすぐれた長所と考えるのは、いわば近代の錯覚である。ストイックやエピキュリアンにまでさかのぼらずとも、つねに人は、自分がなにものかに欠けており、全体から除けもの(のけもの)にされているという自覚によって、はじめて自由や個性に想到したのである。が、このなにものかの欠如感が、ただちに安易に転化され、弱者の眼には最高の美徳であるかのごとく映しはじめるのだ。
(p,95、『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫))

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

僭越ながら 参加していますmusiplでも昨年末に触れましたレビューindigo la End『瞳に映らない』/ musipl.comでフロントマンたる川谷絵音というソングライターのことについて“彼の中でのあなた、と、わたしとは実のところ、対象性の差異文脈を無化せしめ、空虚に「ふたり」という、ひとりの中でアフォードする感じがあるのもどことなく得心がいく。だからといって、完全に閉じ切っていない空気感が、人間というものが「関係性の生物」である本質をむしろ刺激するのかもしれず、そこが誰かのリアリティとしても、自身のリアリティに格納されてしまう錯誤性も表出してくるともいえるのだろうか”と、推考の言葉を置きました。そして、2015年において日本の音楽シーンで当時よりさらに突出したエッジな存在となっている彼は、より欠如への加速への渇望が具現化していて、マッドなほどで怖くさえもあります。indigo la Endはメンバーの変遷がありながらも、ポスト・ロック的にあなたのいない、悲しみを一気に駆け抜ける「悲しくなる前に」というシングルで新たなフェイズに入り、また、川谷が同じくフロントマンを担う、ゲスの極み乙女。は大型CMタイアップがあったにしましても、「私以外私じゃないの」がヒットし、某大臣がマイナンバー導入の際の会見で、替え歌でアピールした際に用いられたのも話題になりました。

私以外私じゃないの 当たり前だけどね
だから報われない気持ちも整理して
生きていたいと思うのよ

(私、以外じゃない)私という/報われない気持ちを/整理して/生きていたい/と思う(こと)

というのはとても現代的な可塑・流動的なフレーズで、だからこそ、行間に言葉を高速度に詰め込んで、レゾンデートルそのものじゃなく、「存在」だけを表象する孤独な刹那の自己の遷移の不自由さを代数化するために、過度な全体性への希求統合を迫るような磁場へか細い“私”の欠落が埋まらないと成り得ない提案を促すようにスピードメーターを振り切るようで、茫漠と響きさえします。

生き急ぐから、ロマンスがありふれる)

「ロマンスがありあまる」という新しい曲では、以下のようなフレーズが耳に残ります。

僕にはありあまる
ロマンスがありあまるけど
いつも贅沢に怯えていたんだ
僕にはありあまる
ロマンスがありあまるから
死に物狂いで生き急いでんだ

ロマンスがありあまる「けど」、贅沢に怯える。ロマンスがありあまる「から」、生き急ぐ。反語矛盾のようで、でも、ピアノが基調のキャッチーで畳みかけるような曲の中で矛盾なく、五感をなぞります。ただ、ロマンスがありあまっていたら、ゆっくり生きようとしないのか、ロマンスがありあまるから、多少は甘えてみてもいいんじゃないのか、というように穿って想えないのが前述の、福田恆存の言葉に沿いますところの“全体から除けものにされているという自覚”の変位を示唆、含みを持っているような気もしますから難渋だな、と思いを持ちます。

「私以外、私じゃないの」もあれだけの言葉数と展開を持ちながら、四分の間での出来事で、この「ロマンスがありあまる」も四分以内の中でうねり、終わります。ワン・アイデアや反復で押し切れるものが増えている趨勢と比して、幾つものアイデアを詰め込み、それでも、過剰消費されることを恐れず、140字以下の感想でも何でもない言葉の羅列も飲み込み、部分としての全体への反映を人身御供みたく、鮮やかに筆致してみせる川谷絵音という人の互換性を帯びます、メンシェビキ(меньшевики)的な覚悟は清々しく見えます。だからこそ、生き急いだ先に彼がどんな情景を「うた」に、また、うた以外のものとして記すのでしょうか。いつかのマクベスの筆致のように、前兆たる不安を刈り取るため、より2015年の実存主義たる様態を極めていくのかもしれません。