Sweet Anger Revue

諸事で草取りをしていますと、てんとう虫を見つけて、しばし手の平で歩く姿を眺めていました。典型的なナナホシ。小さい頃はよく見つけては捕まえて、偽死したり、黄液を出したりするのを観察したものですが、改めてこの赤は警告を示しているのだな、とか、体内にはアルカロイドが入っているのだよな、とか過酷な生物社会でサヴァイヴしてきただけの理由がほんの小さな体躯に意匠を凝らされていて、今は別のところから考えさせられます。「生き残っている」生物、植物には長い経年の中での知恵やちょっとした工夫に溢れていて、過酷な環境や状況に陥ったとしましても、適応してゆく生命力を持っています種の在り様(ありよう)まで想いを連ねますと、よくできたメカニズムだな、と感心します。敷衍しまして、昆虫図鑑を捲っていますと、不意に小学校のときに初めて食べましたイナゴの佃煮なども美味しかったな、とフラッシュバックしますが、“佃煮”という食の保存手法にも知恵をしみじみ噛み締めます。

食と言えば、歳とともにじわじわと確実に味覚もシフトしてゆくもので、どことなく漂白的でパッシヴに、闇雲じゃないものが美味しく思えるようになってきました。目で(愛で)愉しみ、食べて、触感を楽しみ、味を再び愛でる―そのサイクルの中で、最近では、蕗、牛蒡と揚げの煮びたし、ヴァーニャカウダーみたく、細くスライスしました玉葱、大根や人参をサラダ菜に包んで、塩麹ベースのソースに付けるもの、豆乳鍋に雲丹や鯛の薄造りをしゃぶしゃぶ的にくぐらせるもの、厚揚げの中に納豆を割り入れて少し焦げ目をつけ醤油と生姜で食すもの、というような献立の一部が心身を解してくれました。肉類もファストフードも食べるのですが、全体として絶対量が減り、品数を多く、また、時節、旬のものの食し方の種類により魅かれます。トビウオ、イサキの刺身も美味しかったな。たまに、食事処などに行きましても、小鉢ものを頼んで、烏龍茶で歓談しましたり、地のものを勧めて戴いたり、また、異国の方が今はあちこちに増えたのもあり、沢山の言語が陽気に入り混じる空気感はしっくりきます。ヴィーガンムスリムの方も当たり前に許容されていく瀬で、宗教性や民族性を越えて、自国の食文化を再認識されてくることも確実にありますし、「多様性」とはあちこちで必須タームのようになってきていますが、実のところ、最大公約数として話す会話のキーワードは自身の中のナショナル・アイデンティティを言語置換しましたり、“ひとつのテーマ”について多層的に話せるだけの知識の糊しろだったりします。ほんの日本の一都市の、小さな食堂みたいな場で多様な人が集まって、真剣に「温暖化現象」について話せるのはなかなか、いい時代なのかもしれません。深刻で驚くような事態は次から起こり、杞憂は何かとありますが、穏やかな呼吸で健やかに恬淡と構えていられる時間も有難く享受できます。たまたまとしましても、同じ時代に生がシンクロすることは悪くなく。

先日、植物の光合成についてあれこれ意見を交わし合う機会がありました。言わずもがな、根から吸い取り上げました水と空気の中の二酸化炭素を素材に、太陽光を用い、葉にブドウ糖、でんぷんを作る作用。でんぷんはエネルギーの原単位といえますから、「人間にも光合成が出来たら」なんて話は古来からずっと為されているのはその単純な作用のようで、模倣できないゆえの足掻きなのかもしれませんが、オーガニック、有機性という意味へのコンテキストは複線化しているのは反動的要請のひとつとしまして、そんな折に、聴き直すカーティス・メイフィールドの、特に1970年代前半のレコードはメロウに甘美にここまでシリアスに胸に響くものだったかな、と奇遇だけで済まないような、”繋がってくる感覚”には当惑もおぼえつつ、考え込んでしまいました。例えば、1973年の『Back To The World』の背景にはベトナム戦争の混沌とした状況が深い影を落とし、それでも、アフロポリリズミックなリズムにストリングス、ホーンを絡め、彼のあの艶やかな声が僅かな希望的な何かへの担保付けとして柔和に輻射しています。

そのカーティスから巡り、シカゴ、デトロイトを中心部としました”ニュー・ソウル”というアーバンで万華鏡的なサウンドは現在でも多くの人を魅了しながら、そのメッセージ性の切実さも喪わず在り続けるというのは“〜リヴァイヴァル”や“ニュー〜”という容易な冠詞を縄抜けするような同時代性と普遍性の二律背反を止揚する要素があるともいえますし、60年代末から70年代半ばにおけますブラック・ミュージックを取り巻く写し鏡とは一過性のファッション的なものとは縁遠く、ムーヴメントとも形容されます状況論が前景化さえします。モータウンサウンドを代表します、それまでのポピュラー・シンガー的なあり方から一気にシリアスかつコンセプチュアルにしかも、社会的なメッセージを強め、翳りのある空気感を甘く含み、今もってして世界中からの評価の絶えない、マーヴィン・ゲイの1971年の『What’s Going On』を筆頭に、不世出のソウル・シンガーたるダニー・ハサウェイから、ロバータ・フラック、現在も闊達に活動を続けているものの、1970年代前半の間の『心の詩』、『トーキング・ブック』、『インナーヴィジョンズ』、『ファースト・フィナーレ』の作品群の鮮烈さは凄まじいものがありましたスティーヴィー・ワンダー、他にも度々のレア・グルーヴへの評価から再発見し続けますリロイ・ハトスン、リオン・ウェアなど数えきれない大きな存在が“ムーヴメント”の一翼を担っていました。

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もはや、この2015年の中では看過できない作品として、世界中で注視され、語られ尽くされていますケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』は流麗なグルーヴに複層的にレイシズムや現代のアメリカ社会への異議申し立て、自らにもたらされた名声や栄誉に付随して生まれ得る贖罪意識、更にはブラック・ミュージックの抱える業に実直に向き合いながら、しっかりとストリートに拓かれていて、アーバンで鮮烈な内容でしたが、ニュー・ソウルもアーバン・サウンドと、どこかインナーヴィジョンに向かっていた危うい均衡が魅惑性を持っていたところがあり、時代性は全く違えども、感応できますフィーリングは近似的な何かを帯びていると言えるかもしれません。また、アーバンかつソフィスティケイトされるほどに、同時に引き裂かれてしまう孤独や内在化される不条理な世に向けての憤怒は先鋭化されたメッセージ性として遠心力を持ってゆくのには、ベトナム戦争の体験を軸にしながら、“マインドフルネス(Mindfulness)“を通じて、世界中に求められる禅僧、ティク・ナット・ハンがよく”anger“といった感情を用いるのを俎上にせずとも、ピンとくる潮流は多少はあるのかも、と風呂敷を拡げたような考えに至りもします。憤怒(anger)とは直截的、端的にダイレクトにぶつけられるばかりではなく、静謐に、穏やかにその輪を拡がってゆく場合もままあるとしましたら、ディーセントでとろけるようなスウィート・ソウル・レビューに対しての意識変位の引力が強くなっているの不可思議さに我に返ることも時おり。

世の中にはスウィートやキャッチーがいっぱいある“はず”で、でも、生憎の準備万端のパレード当日は大雨が降ったりして、折角の服や気持ちが台無しになったりして、ただ、Revueは今日もどこかの、劇場だけじゃなくささやかで何気ない日々のきざはしで始まっているのでしょう。