常設化された熱帯夜の、ディスクリート

1)

ポジティヴが「過ぎる」と、アレルギーのような反応が起こってしまう。かといって、そのポジティヴの背景に鬩ぎ合うマイナスの要因がかろうじて、過ぎない程度に背中を押しているのならば、なんとなく信じられる。1か0か、の「決断」はあっても、「判断」はないのと同じくして、0.00000….1くらいの無限背進のような極数でプラスが勝っていたら、何らかの形でそれを“ポジティヴな何か”とみなされる程度のもので、周囲から見たらどうにも不遇に思えるような状況でも、不幸では決してないケースはままある。この数年で色んな境遇の人を見送った、自分が見送られるかもしれないと思ったときも正直、時を掠めた。深い井戸の底のような場所で、ただ、同じ書物を読み、狭い部屋で異言語の頭で異文化のことばかり考えていた、終わりのない煩悶の中の景色は消えず、これからも残るのだろう。それでも、それが無為だったとは思わず、無為とは「なにも、しない」こととしたら、本当に無為な状態とはもっと淡々と悲しいはずかもしれない。そんなときには悲しさに浸る余裕はなかったほどに自己は不確定のまま、投げ出されていたのを想い返すと、だが、時間が解決する場合もある、と「だけ」思った。時間では決して解決しない膨大な課題群を傍らに。

2)

花の細かい種類はなかなか憶えられないものの、図鑑を捲る機会と花屋に寄ることが増えた。季節のものを確認しがてら、時おりの贈り物としてプリザーブド・フラワーを勧められる。年々、プリザーブド・フラワーの、その種類の増え方に驚きもするが、同時に、枯れない花が残ったままのあとも想うようになった。施設や人によっては生花が駄目だというのも増えたので、プリザーブド・フラワーが出たての頃はよく買っていた。その過程で、今年の〇〇は色合いがいい・よくない、などの機微、彩りに気付くようになってから、枯れる美しさを孕んだ生きた花の強さに気付きもした。品種改良の果てに、元来の良さが失われてしまうのは自然に問わず、ある。そういう話も花屋の方としたりしながら、フラワーアレンジメントの手捌きと色の合わせ方によってここまで印象が変わるのか、再確認もした。色が暖かく撥ねて響くと、冷えた空気を変える。息がしやすくなる。

ある友人は日常を忘れてしばらく、どこかに旅に出たいと言う。ある友人は家族で救われたと言う。別の友人は家族という形態に苦しめられている。生きていたら遠心的にでも、もしかしたらクロスするのだろう、くらいの感覚で、旅、家族、幸福、歳を重ねること、といった何だか大げさなようなテーマが当たり前に小文字で游ぎ、静かに消える。テンポが変われば、そんな風になる。高低差のないただの日常で高山病に潜水病になってしまう瀬だから、息がしやすければいいな、と思う、それぞれで。

3)

「平和」という状態の対義語は「混乱」としたら、「戦争」という手段の向こう側は何なのだろうか、考える。既に、集合的に心理的な恐慌状態が起きているから平和ではないよね、というアフォリズムは無機化しているにしても、経済的な合理手段として(戦争)牽制する効果はどこまでの認知のリーチが届くのか、はジョン・ダワーの一連の著書、加藤典洋敗戦後論』などを読み返しながら、いわゆる、新自由主義以降の見取り図を確認すると、選択肢は無数にあるようでなくて、その選択肢にあまりに無防備な政治的アパシーがダイレクトに「直結」されてしまう文脈という病、因子を辿り、もはや一時代前のものになってしまったが、1976年のダニエル・ベル『資本主義と文化的矛盾』で定義された様なポスト・モダンの刹那的な価値観と文化的デカダンスの鬩ぎ合いへの今更の視座とともに、モラル・マジョリティ(道徳的多数)とは逆方向の騒がしさに距離感を憶えているのはどこまで共有されているのだろうか、というところで一旦の休符を置く。

「共有」概念は、そもそも、もうちょっと警戒して堪え忍ぶものじゃなかったのか、とも。誰かが「何かを云う」ことへの賛同/否意はリアクションとして、意味はあるが、そのリアクションだけでは意義が出てこない。何故ならば、その誰かが「何かを云っている」共時性の中に自己がどこまで反映されているか、いないかの線の引き直しの思考のブレスがある程度、必要で、制度側の白線で明確に「分ける」のは後々、禍根を生む可能性が高くなる。割れ窓の理論も分かるものの、極端化された強風で、風下に立っていると、元来の風向きが分からなくなる。分けられたことで、分からなくなる―それを環境や想像力の格差で含意すれば簡単だが、深刻な実相はより他者性への冷酷さで示されるなら、ちょっと違うだろうとは思う。自分のことで手一杯だから、真っ当な正論に靡く、とは思考停止とは違う思考放棄の所作で、勿体ない。予備校の講師がいつかに「今でしょ」とパフォーマンスしていたが、今すべきことじゃないことなら、しなくていいと心から思う。勿論、いつかはなくて、今しておかないと一生できないことはある。例えば、健康を損なえば行動範囲は狭まる。でも、思考できるなら、想像範囲は広まるかもしれない。或る名所に旅に行きたいと思っていたら、紛争や天災などで警戒地域になってしまって行けなくなってしまったり、今度、会おうと思っていた人に二度と会えなくなったり、色々起こる。でも、そういうことは過去から起こってきたことでもあって、今は今で「不安、不幸になりたがる」傾向の人たちの根脈を探れば、イージーに思えてしまうときがある。ときに、経済的与件は大きい問題になるが、無論、その与件は社会システムが共通認識の下で形成可能性が高いうちは「交換」できるものは多く、でも、社会システムの共通認識が底割れしていけば、交換できない貨幣や貨幣的な何かは増えてくる。その際に貨幣で交換できる未来と、貨幣で交換できない今の満足係数の互換も思うようになってくる。

タクシーの運転手の人と話すと、異口同音に乗客のマナーの問題を言う。要は、お金やその方の大事な時間を戴いている身だから、最低限、何でも言う事は聞くけども、そこを越えてくる、振る舞いの酷い人の確率論が増えた、と。タクシーの運転手の方も千差万別だから、乗客だけの問題じゃなく、自分が乗っていても対価サービス、ホスピタリティの低い方に会うと、「移動」のための時間でもなんとなく不快になってしまうこともある。でも、そういったことも時たまの、良い運転手の方の配慮やサービスで帳消しにされてしまう。色んな境遇の、色んな条件性で生きている人が社会の中では肩をぶつけ合っているゆえに、慮る境界はあるにしても、その境界線は何だかもっと「いい加減」だった気がしていたら、そうでもないようで、と体感する温度計は、とうにいつかの基準を振り切っていたのに熱帯夜に気付く。

4)

(長生きの意味ではない、)生き「過ぎる」こと、枯れない花、熱帯夜の認知時差―これらのバラバラな点を結ぶようなロードマップを考える。過程での、あの道は封鎖されたんだっけ、抜け道はどうなったのか、照応してみないと、なんて事柄をマッピングしてゆくのは存外、楽しく、楽しい時間はずっとは続かないのはわかっているが、楽しくするための必要内での労苦を続けないと、保留さえされない対抗への解除の論理を鍛え直してみている。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)