monos note

最近、何かと多面でドイツの名を見ることが増えたので、思わぬところで自然と、ライプニッツと「再会」することがあったのだが、当初はといえば、ドイツ政府が2010年に定めた“ハイテク戦略2020”を紐解くことが多くなり、主に製造業の中では「インダストリー4.0」の話がよく見受けられるになってきたのが発端だろうか。昨年の4月にプレス・リリースされた「インダストリー4.0白書」に準ずるところも大きいものの、これからを切り開いてゆく施策のひとつとしてどのようにスマート・モデル化していけるのか、異分野からの注視としての側面もある。産官学連携の大きな収穫となるのか、スマート化するために出てくる積み残しの課題がどういった形になるのか、ステークホルダーの合意形成の順路は整備されてゆくのか、またはクローズドではない、ウイークタイ的な緩やかな共同体生成がはかられるための参加企業の意思決定プロセスはどうなのか、など興味深いテーゼは尽きない。基本は、これまで通りのカンバン、JIT(JUST IN SYSTEM)を継承し、そこに、生産システムの多岐化を試みようとする。マスプロダクション(大量生産)からマスカスタマライゼーション(個別型大量生産)へ、なんて即妙の惹句もあるが、要は大量生産し続ける寄与的概念自体から顧客市場の個別願望に応対、内在化してゆくための生産の在り方を改めていければ、というもので、同時に、元来の工場環境に基づくポスト・フォーディズムが過度になった中で、ヒトが疎外されていたのではないか、という反省に立ち返る要素も含む。生産、ライン管理された中で自動化できるシステムの限りを尽くせば、その中に居るヒトの持つ労働作業への動機付け、属性までも奪い取ってしまうイロニカルな状況への対処といえば、響きは良いが、テクニカルにプログラミングしていけば、もはやこれまで通りにヒトを擁しなくてもいい分だけ、そこに居ることができる(許される)人同士の環境をカスタマイズして、また、現場レベルで完結せずに多岐にネットワークを拡げていこうということでもあり、普遍化の視角を持ち込めば、メーカーの問題だけに終わらずに、昨今、様々な分野で議論されていることだったりする。

公的機関、研究所、業界団体もそれぞれ互恵基準を精査しているが、「互恵」になるからには、どこまでのレベルかの差異も踏まえ、ネットワーク、つながりを視える化、システム化し、なおかつ、最大効率化できるかの適合点を見出さないといけない。その為に組まれる予算、プロジェクト、人員から何まで、組織内外、社会における意味期待を負う在り方がシビアになってきているがゆえに、変節の波をどう乗り越えるかは大同小異、抱えざるを得なくなっている。そして、それは自分(自らが属する場)とは無関係、と言い切ってしまえないケースがあり、小さな分野にも確実に波及はしてくる。大きな変化の波は、小さく確かに変化を拒むように、また、変化にスライド的に適応していくように生きてきた組織体の判断も「結合」しようとするからで、そこでも、冒頭に巡るところのライプニッツを想い出すトリガーに繋がった。

1666年の『結合法論』では、あらゆる素数の積で導き出されるものと同じく、概念もそれ以上は分解でき得ない原始概念の結合によって成されるのではないか、という着想を示した。素数は分解できないが、組み合わせによって成る場合があるが、”成らなくてもいい”。単位に降りていけば、概念にも分解できないものがあるのではないか、と。概念間の結合への演算処理と記号生成は、当然のように今では“制約条件付き“でやり取りされているが、混合論として式化してしまえば、抽象性に深みと、具象性に意味を付与できる径路を辿る可能性は高くなってくる。それを確率論からの普遍的な方法論への認識過程と捉え直すと、大雑把過ぎるが、「原理」を巡っての検証の装備の在り様を如何ほどにチューニングしてゆくか、といった側面を精査すれば、もっとわかりやすいかもしれない。原理に立ち返って、論理から、論理という単位をどういった言語として用いるか、まだ、その可塑性は高いので、一見、小難しそうなテーマでも分解していけば、パーツ同士の結節が見えることもあって、では、結節のためにどのような方策をそれぞれ用いているのかを洞察してゆくと、存外、自分とは一番遠いような場所に思えた解がすぐ近くに転がっていたりもする。

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たとえば、機能不調が起こると、対症療法を用いることがある。熱が出たら解熱剤、便秘が続いているなら下剤、食欲がないならサプリメントみたく。でも、あくまでピンポイントにその症状に対する療法で部分は全体へと帰納するからして、発熱という原因が過労に伴う風邪などで分かるならいいが、そのとき分かる、重要なことは風邪という状況ではなく、発熱が知らせてくれる過労という予兆、サインの方だったりする。過労になった遠因を辿っていけば、発熱で自身を停めてくれたのかもしれない。もっといえば、発熱しなかったら、倒れていた可能性も否めない。ピンポイントでガーゼをあてがっても、根本的に傷口は癒えない。疲れやすくなって、という人が歳のせいかな、と気楽に病院に行けば、「肝炎の気がありますね。」など思わぬことがあるのも道理で、症状とは本当に表層の一部で、また、その一部が分かる次元まで上がってくれば、どうにか対応ができるが、進行してしまった後では遅い。でも、「進行」しているのは自覚症状の範囲内で済まない。システムのフレームが変わっていけば、その内部で生きる所作も随時、多様化する。極端に対症化できるものがあれば、その場凌ぎのものもあり、どうにかなるだろう、で見ていたら、どうにか為されてしまった恒常性が眼前を覆う。眼前だったらまだ、立つ場を変えてみたら見え方が変わるのでいいが、根源から入れ替えるかどうかの「問い」への解のための導線はそうはいかない。となると、ライプニッツの着想の横断性へ時おり想いを馳せてしまうのは今さら、な所作なのかもしれない。

モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)

モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)