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「答えが(制限条件の中から、)ひとつ」である教育スキームは、基本は変わりなくあって、ゆとり世代(さとり世代、というのはまた別途に)の心はわからないという周囲と違って、自分とは違う長けたアンテナが確実にあって、全く基礎教養がないこともないし、コピー・アンド・ペーストの贖罪性の問題やオブセッシヴな検索執念と自分のサークル・ライン以外は全く景色に近い、と同じくらいだとか、先々の未来的な何かに過大な期待をしていない分、自己投資に存外、積極的だったりするのは感じる。

それよりも、人材のミスマッチで状況論的に厳しい30代、40代の現役の人たちは“いい時代”もなく、人口動態内の“労働者”としてのマスとして狙い打ちされながらも、10年ひと昔というものの、社内研修、試験、部下、上長、海外とのシンク、同業他社とのグルーミーな陣地の取り合い(これは職務に限らず)の並行線上で、家族や保険、または健康、過労と駆け引きしないといけなく、そうなると、必然的に関心・興味をより「外部」に持って行き辛くなる。(経費や必要諸費で、)少し海外研鑽に行く者?、と言って手を挙げた人たちをざっくり連れていっていたのは昔話の範疇に入るところも出てきている。無論、自身の父親や団塊の世代前後の方には畏敬を称するし、日本の発展の基盤を形成してきた人たちの刻苦勉励の土地の御蔭で自分などは立たせてもらっているわけで、それでも、そういった人たちの“いい時代”の話を聞くと、それがまた、巡ってくるかもしれないという願望は、少しはあっても、一部のブレイクスルー層がひとつのクラブを作り上げている現状を前に、考えてしまう。確実には可視化でき得ず、どんどんその断層は極まってきているが、実感としてこの断層は何なのだろうという集合的潜在意識は膨らんでいるのは現前しつつある。

新卒で入ったときから差異があるプログラムで進められるHRMなどは経営企画―人事部のみの判断ではなく、組織体としての切実な訴求なのだと思う。要は、多少、“あそび”の効く人材を置いておける余裕はないものの、そういった人材が去っていった結果、“あそびのない”人材からこれからを担ってゆく人たちを、リストを見たときに初めて気づくところも多いというのは聞く。そして、公募を掛ける。例えば、“年齢不問、事業企画、営業の経験最低5年以上、新しいプロジェクトを束ねてもらいます。(以下略)”−待遇も細かく書かれている。しかし、“あそびのない”人材としてその公募を掛けた組織は、それなりの自己武装をしていたり、別の軌道に乗っている。そこで、首を捻る。中間管理層前後の世代と分厚さがない。コンサルタントなどに話に行く。相応に、彼らはひとつはこういうことを言うかもしれない。

「組織の風土や内部の情報の非対称性もそういった世代の人たちはわかっているのだから、上の世代で元気な人たちを再雇用して、今いる若い人たちの教育係にした方がコスト・パフォーマンスもいいでしょう。成果・実力主義がじわじわ取り入れられているといえど、まだ、日本の社会は“ウチの場合は”です。あまり、異風を好まない風土もずっとありますから。」

60歳を前にした再雇用制度が増えているのは、内部の事情のみならず、潜在知、経験知という引き換えのきかない部分があるというのも含め、そうなる。20代の若手と再雇用者とをタッグで動かせると、正直なところ、HRにかかるコストはかなり抑えられる。その後の回収メリットまでを考えると難しいが、進行形で戦術部門が利益をあげないと何でも航行していかない。戦略部門はシャットアウトされた観念の会議室で考えるばかりではなく、ガラス張りの会議室で悩んでいる。

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働きたい人たちは沢山いる。働いていても、「もう限界がきている」という人たちも沢山いる。働きたくても、働けない人たちも勿論いる。そして、一通り、働き終わった人たちがいる。

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ほんのわずかな綾というよりも、日銀などが翻弄されているターゲット論や都度の緩和策も“失われた10年”の段階で、有効な手を打てず、ずっと“失われ続けている年数”が経済学的に増えているからだろうし、グローバル経済上で攪乱される金融政策と財政政策のインバランスがインタゲ、第三の道ベーシック・インカムケインズ回帰やら目まぐるしく幾つものテーゼを生んできたのかもしれない(それぞれ、深い概念性や派があるのは当然として)。

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村上龍という作家は、時代を読んだ書を書く、とときに言われる。精緻にはいつもズレがあると思うのだが、80年に『コインロッカー・ベイビーズ』を書いたときには、今でいう“子供の貧困、混沌”が違った形でそのときに、や、98年の『イン・ザ・ミソスープ』では猟奇的事件が国内で起きていた瀬であったし、00年の『共生虫』は社会的ひきこもりの風潮へのノベルで、その後も『希望の国エクソダス』、『半島を出よ』などもあるが、そこはある種の切実さとあのワンブレスの異様に長い文章と、暴力描写と緻密な取材に基づいた描写に少し“間の抜けた”青年たちへの希望的な何か、全能性を仮託する彼特有のズレがある。それでも、作家論よりも、99年にJMM(Japan Mail Media)を初め、その中では金融・経済に重きを置き始め、専門家たちに積極的に質問を投げかける在り方は『〜のハローワーク』よりも自分はしっくりきた。金融・経済というのは、00年前後では積極的にアタッチする人は居なかったからでもあって、それよりも、法学、社会学、文学といった社会科学、人文科学分野での風潮はあった。それが9.11以降というのは察しのとおりで、但し、現在は経済学が人気あるわけではなく、あまりに金融経済システムが混線化しているため、もっとビット化されているのも事実だとも思う。

日に日に、耳慣れない言葉が増えるのはそのフィールドにおける悪慣習なものの、リーマン・ショックのときによく見受けられたCDSでも少し文字化すると…クレジット・デフォルト・スワップの頭文字を取ったもので、社債国債、貸付債権など信用リスクに対して、保険の役割を果たすデリバティブ契約のことを指し、CDSにおいての買い手は、債権者や投資家。プレミアムを支払う代わりに、その契約対象となる債権が契約の期間中にデフォルトしても、生じた損失は保証される。また、CDSの売り手サイドは、プレミアムを受け取る代わりに、デフォルトになった場合、買い手に対して損失分を支払うことになり、本取引で買い手が手に入れた、デフォルトが起きた場合に損失相当額を受け取る権利を「プロテクション」という。CDSは基本、プレミアム、プロテクション、スワップで動く…みたいな話が続く。しかも、国同士の信用リスクで変動したり、細かいパラメータがいる。それでも、投信・資産運用面に限らず、多少、世界の見渡しを良くするには、こういった知識があると、国と国のつながり、景気変動からフィードバックして、自国・自分の組織体はどういったマトリックスを組むか、に繋がってもくることもある。本当に関係ない経済はなく、来年1月からの相続税改正も一旦、始まれば、そうなってゆく。昨今、厚生年金への懸念や確定拠出型年金の話題も多いが、いつかはオンだったことも、すこしの時間の流れと公的な法改正と構造の軋みでオフになってゆく。ゆえに、自己防衛しかないとなるが、「防衛網」を張り巡らせるほどに行き詰まる施策をどんどん打ち出してくるということは現金をタンスに、金庫に、また、タックスヘイブンに置いていても、完全な安全性は保持されないという証左でもあり、そこさえも視える化、ナンバリングしてゆく前夜だとしたら、自己防衛は字義どおり取るのではなく、自己防衛するために、相容れぬ他者とのどういった関係性、連携を見出してゆくかの力学も要る、そんな想いもする。答えは当然、ひとつじゃない。しかし、答えを見出してゆく過程は絞られる。