町と街の間で

マレーシアはクアラルンプールから少しタクシーに乗った郊外に巨大なモールがある。内部は人工の川が流れ、ブランド店含め、400以上もの店が並ぶメガロポリスのような、東南アジア最大級の「街」ともいえるかもしれない。

【Mid Valley Megamall】
http://www.midvalley.com.my/

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日本でも、郊外の巨大モールに行くと、ひとつの地域共同体の形成価値について考えさせられる。先日、8月をもって、和歌山県高島屋百貨店が閉鎖した。しかし、和歌山には巨大なモールができている。山道を抜けたら、急に拡がる新たな街。そこにはパート従業員や大学、またはバス、マンションなどの整備が為されていっている。そういうことはよくある。でも、そういうところがあるだけまだ救われている地方は多く、作られた街さえない場所では何時間もかけて、病院に通い、宅配でフード・サービスを頼み、娯楽や教養関係にはなかなかアタッチメントできなくなっている。

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話を戻すと、マレーシアのミッドバレーメガモール(ミッドバレーというのがいかにもだが)に居たときに僕はティピカルな日本人の一人として多くの人に話しかけられた。現地の方や白人の方も多かったが、イスラム教徒の方も居た。対話を愉しみたい、という方も居たが、日本語で言う食育、フード・サイエンスの領域のこともあった。そのモールには、無論、色んな飲食店がある。カジュアル・フード、イタリアン、中華料理から和食、寿司。百花繚乱の中、和食、寿司は相対的に値段が高いにも関わらず、人気で、それは日本に居て、もてなすときにTofu、Sushi、Vegetableなどが特に喜ばれるのと一緒で、しかも、今は増えてきたハラルや各々国の慣習、文化にコレスポンデンスしたものでないとも「いけない」。だから、たとえば、ラーメンでも、スープにこれが入っていたら駄目だとか細かくある。そういった細部に無神経で居ると、対象性への無理解以前に、失礼に当たってしまう。

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今、フラットに呼吸し、生きる街と別の仮想化された街を同時並行、パラレルで生きるべき宿命も一側面である。以前にもう引退された恩師が「死ぬまでに一度、スペインのサグラダ・ファミリアを観たかったけど、体も悪いし、もう無理だね。」と言った。現地でサグラダ・ファミリアを観た者として、最初はやはりこみ上げるものがあり、しかし、ただ、ひたすら現実だった。世界遺産の書籍を読んでいて、現地でいざ実物を観ると、「確認作業」に終わりながら、そこから逸れた路地裏のバルがとても雰囲気が良かったなんてザラにある。故宮博物館で翡翠の豚の角煮、白菜を見つめ続ける時間よりも、別部屋の水墨画がとても美しかった。生きることは記念メダルを集めてゆくことじゃないとしても、喧しく規制を掛けて、記念メダルさえ得られない瀬もどうなのかと思う。すこしのタイミングでその場所に行けなくなる、そういうことは当たり前になった。背景には政治的事情、地政学の問題、環境要因、色々ある。でも、行っておけばよかったという気持ちは保存しておくに越したことはないのは、また、扉は開くことがあるからで、自身としては、現実の街が窶れてゆくのと、生き生きと無機的ながら優雅に花開いてゆく新しい街の狭間に、例えば、ミッドバレーの間に、実際の河と中の人工の川の間で、考え続けたい。