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300円で食べられるランチも、2,000円のランチもどっちもあっていい、という市場原理としては間違ってないからで、というには、アベノミクスだけじゃなく、人口動態と市場スキーム、要は産業体系の変容の中で、実体経済(家計面)で息苦しさをおぼえる人たちの声を多く聞く。鳴り物入りの大阪の阿倍野ハルカスも集客力はあるが、飲食、服飾、買い物などの+αで落ちるお金は厳しいと都市整備コンサルタントの知己が言う。

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医療費改正も70歳以上、いや、病院だけじゃなく、70歳辺りを狙った政策が2015年1月からの相続税改正以外にもどんどん狙っている。とんでもない富裕層ではない。でも、何千万かの貯蓄がある層。その貯蓄を投信にまわすか、誰か近親者のために使うかについても網掛けをしようとしているが、では、現役勤労世代の毎日、粉骨砕身して、所得1,000万円以上をという層もダイレクトに標的になっており、マイルド・ヤンキー論(これは今に始まった論ではない以前に対症療法本でもない)、まったりと地方での地縁主義で、という視角は別に、孫育(そんいく)という言葉が躍り、駅前のシャッター商店街の中でほのかに灯りがついていた店がいつの間にかチケット・ショップになっていたり、レンタル・ショップも統廃合され、書店もスモール戦略、取り寄せメインになり、整備整頓されていった結果、医療施設、ドラッグストア、チェーン外食店、スーパー、パチンコ店、銀行…が画一的にある通りを賑わせる。スケール・メリットの是非じゃなく、デメリットをヘッジすることのスケールはどうなってゆくのか、日本の経済が委縮してゆくほどに、外向けの概念がなぜかトレードオフに屈強になる。
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先日、インドの首相が京都を訪れていた。その映像が全世界に流れていた。東寺があらゆる言語に翻訳されてゆく様を見て、その速度とシグナリング効果と、今の瀬におけるパフォーマンスとは寧ろ、インタラクティヴでなくなっているとも感じた。一時期、インタラクティヴ、相互互換を巡っての趨勢があり、大学や研究機関をはじめ、そういった試みを敷くところは確実にあったものの、今は巨大な一方通行的なサインを膨大な“集”が独自解釈して、それを下放させてゆくようで、均質的にそのサインは消化されるようなところがある。何故ならば、“東寺・インド・外交施策“という設計図に書き込まれるパタンとは有限じゃないか、という気がするからでもある。クリストファー・アレクザンダー的退却じゃなく、「進んでいる」からこそ、そうなる。

広島で避難勧告解除を受け、家に戻った人が「あの恐怖を想い出すと、眠れなくて。」と言っていたが、今、眠れないということは「何を選択すれば、不安をどう処理すれば、安眠できるのか」と同義のようで、「何を選んでも、ひとつの安眠でしかない」という近しさを帯びる。ひとつの安眠でいいじゃないか、というのは正論ゆえに、そんな正論を対象化しないといけない瀬になっているのがもどかしくさえある。