成熟化と慣れ

いつも言葉は曖昧で、規制が掛かっている。

その規制は内側でリライトされて、外側から覗き込もうとすると蒸発してしまう、そんな儚さもあって、この1年ほどでなにが変わったのか精査していると正直、落ち込んでしまう。なにかしらの仮想敵を作って叩いて潰す風潮は強くなり、社会的弱者のためのセーフティーネットは外されてゆくような仕組みができあがり、その高い壁越しに適切に判断できることさえ、留保してしまわざるを得なくもなっている。

たとえば、「民度」という言葉があるが、民度はある国にとって社会に属する者の政治的・社会的・文化的意識の程度、すなわち市民社会の成熟度のことを指すが、民度の高さには教育要因、経済的与件、社会保障、インフラ、治安の安定が間接的・直截的に寄与する。日本の民度が高いという場合、社会として成熟化していると捉えても問題はない。成熟化した社会ではより高い何かを求める必要性はなくなってしまう。だから、砂金を掘り当てるような作業も、仕事になってゆく。

この前、「普通に生きることさえままならないね。」とある知己がぼやいた。普通という言葉も曖昧だが、その知己の組織内で生活を続ける、それさえも寸先が視えないという文脈で、「多くは望まないで生きてきたんだけどな。」とも言った。僕は、悲しくなったのは多くは望まないで粛然と生きてきた人たち、までこうした嘆息をこぼす瀬というのは何なのかというスキーム形成の液状化だった。TVをぼんやり観ていると、暗いものが目に入る。今年の漢字や流行語にはピンとこない自分はもうメディアの外にいる。その分、「多くは望まないで生きてきた人たち」の側に立ちたいとも想っている。静かに季節は変わる。生き方も変えていかないといけなく、専門知を駆使する方法論も変わってくる。リテラシー能力は成熟化した社会でのせめてもの抗いといえるかもしれない。曖昧な現実を見極めるための。

例えば、震災などで一時避難した人たちのその後はどうなっているのだろう。仕事のみならず、生活はしっかりおくれているのだろうか、フィリピンの台風の後で生存は確認できたものの、連絡が途絶えた人もいるが、連絡ができなくなるということは「良いことではない」。ぼんやり、飛行機や電車の移動中でよく今年はほんの3年先でもいい、自身が編みえる未来的な設計図が社会貢献に寄与するマトリックスを描いていた。長く生きた祖父も実家の愛犬も亡くなり、父母もセカンド・ライフに入り、周囲もなだらかに疲れているような感じが漂う。だから、自分はそんな疲れを見せないように、やってきて、来年もそうしていこうと決めていた。いくつかの訃報、涙を噛み締める出来事も尽きず訪れた。春になって、嬉しい便りや桜を愛でることができるだけでも素晴らしいことかもしれないが、正念場のような日々はまだまだ自分のみならず続くのだろう。疲れにも慣れてしまう。「まあ、いいや。」で済ませてしまうことにも慣れてしまう。慣れは感性を曖昧にしてしまう。