Snowy Emptiness

過去とは所有者の贅沢だ。過去を整頓しておくには、一軒の家を持つことが必要だが、私は自分の身体しか持たない。
サルトル『嘔吐」より)

ずっと自分を駆り立てていた衝動みたいなのはこの数年、何だったのだろうか、と思う。

きっと、申し訳ないという気持ちはあった。それは自分が生き延びて、とか、もっと力を尽くさないと、とか、基本、安穏とした生活、とか、数え切れないほどの罪責の念かもしれないし、それほど重いものでもないのかもしれない。

見る人が見れば、「人一人に出来る限界があるのなら、無関心でいる訓練もいるよ。」と思っていただろうし、僕が無関心でいた季節に、あることに本当に粉骨砕身してくれていた人たちもいたのは知っているし、感謝もしている。

でも、季節は移ろえば、役割は変わる。老いれば、優しさの質も変われば、尽くせる命の配分も変わる。静かに枯れてゆく花に生命維持装置を付けることは“しなくていい”善行なのだと想うこともあるし、間違っている発想を幾つも僕自身が抱えているのは否定しない。

生きるためには基本、お金は必要だし、お金のためには労働がいる、それと引き替えに市場は廻れば、誰かの生活にも間接的に関与する。ただ、その「お金」が随分、見え難くなってしまった。それは経済学をやっているから、とかではなく、露骨に「お金」が見え過ぎたから、という逆説的要因にも帰一する。抽象的な表現だと思うが、自身がたまたま巡り合わせた電車のタイミングが合っていた、それだけだとも思う。でも、その電車もいつか隣のリニアモーターカーに抜かれる日がくるだろう。そのときはそのときで考えてみて、良い面ばかりを見ていられず、暗いことばかりに項垂れても居られない。

天変地異や戦争で亡くなった人たち、その後の苦心たる生活、それらを取り囲む危ういバランスは他人事でないことが多く、街には多くの出逢いもあれば、ハプニングも潜む。でも、そんな街が世界中に犇めき合って、それぞれの色彩があるから、飽きないで生きていられることも多い。

飽きる、諦めることはひとつの選択肢で、悪いことじゃない。自分がもはや諦めたことも密かにある。諦めた分だけ、諦めないでいようという範囲がクリアーになる。

その範囲がときに、自分が戦力外通知を受ける頃には新しい設計図となって、拡がっていけばいいな、と今は想ってやっている。クリスマスは平等にみんなに訪れるように、次の日の出を待つ日々も悪くない。

20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉

20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉

20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉

20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉