アルパカが飼えるころには、便りを出すよ

今年の京都音楽博覧会くるりのセット・リストは穏やかに波打つように、柔らかく胸に響いた。「Remember Me」を真ん中に置きながら、「キャメル」や「ばらの花」などのゆっくりしたテンポのものが選ばれ、定番的な「京都の大学生」や少しファストな曲を敢えて外していたところがあり、その後の15周年記念ライヴで披露された「Loveless」も身体リズムに合う、そんな確かなテンポに沿った曲で歌詞もとても優美だった。そんなテンポに今の自分もフィットしていたのだと思う。

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最近とくに、自分自身の体感速度と外の速度の違いに戸惑うことが増えた。訪れる新興国では、忙しいながらも、なぜか一日がのんびりしている感覚がある。ジャカルタのよく通る道の脇では屋台で果物を売っているおばさんがいる。でも、売る気もないような感じと適度に息抜きしながら一日中、そこに居たりする。ただ、時おりバナナを買ったりして、他愛のない話をしても別にそのおばさんの生活は穏やかなもので、「今日は雨が降るらしいよ。」なんて言ったら、「そのときには締めようかしら。」なんて言う。

日本では、ふと気が張り、忙しくなる。大体、昔から「人混みを掻き分ける」というのが苦手で、東京駅に着いてわっと人の波に攫われそうになると、どうにもうまく機を読めない。「機を読めない」というのは、向こう側から来る人と何度もこっちへ、あっちへお互い避けようとしてなかなか進めない、そんなことで、最近だとスマートフォンやらで熱心に一点集中して向かってくる人たちも多いので、油断していると、正面衝突しそうになる。で、ぶつかったらなぜか、「気を付けろ。」とこの前などは怒られた。

自分自身も忙しない人間だと思っていたら、年々というか、周囲の速度の方が上がっていったようなところがある。だから、スマートフォンに乗り換えるときに、「別に、いいや」となった。そして、デジカメやアナログ・カメラで風景を撮るのが好きになった。医者の知己と話すと、「オブセッシヴに生きても50年、恬淡に構えても50年」というネタであれこれ盛り上がる。彼は、現代社会の喧噪や情報量の多さは異常だよね、と当たり前に言う。僕も「そうだよね。」と当たり前に答える。そんな対話がでも、彼は他の人とはできなかったりするんだよね、とも言う。ああ、そうかもな、と思う。彼とは年に一回か二回、会うくらいなのだけど、いつも最近、何読んだ、何聴いた、どこ行った、とかの話をして、真面目な話もくだらない話もする。「じゃあ、元気で。」と手を振る。それで、10年近く、変なもので関係が続いている。この前、久しぶりに話したときも「でさ、うどん打ち教室に行ったんだ。」とそんな話から始まった。「話ができる」ということはお互い、あれこれあるけれど、「どうにかやっている」という暗黙の前提があるから、「じゃあ、また、年明けにでも。」と電話を切っても、何も不安が残らない。

次はこれ、その次はこれ、という生活スタイルも楽しく、新興国のショッピング・モールに行くと、いつかの日本が辿ったのだろう華やかな家電や家具、服飾、色んなものが揃っている。プロジェクトに参加していた若い男の子は「今度、冷蔵庫を買うんだ。」と言う。沢山の、未来を話す。思えば、甥や姪も「将来の夢」をよく言う。将来、1年後はどうだろう、「この5年で世の中、すっかり変わったね」なんて親と話をするときに僕はまた、「そうだね。」とも思うけど、基本、そんな変わっていないものも多いのかもしれないな、という気にもなる。

今の自分は「将来、アルパカを飼えたらいいな」、なんて結構、真剣に思っていて「アルパカの飼い方」なんて本を買ったりしているのだけど、そんなくらいで丁度いいのかもしれない。

春になる頃には 便りを出すよ 変わらないでいてね

アルパカ ALPACA

アルパカ ALPACA