weather jamming

クロスオーバーとして、「気候変動の適解」について話し、考える機会が出てくる。年々、季節の機微、気象の奇妙さ、という個別の内在感覚論からマクロなレベルで人間社会の警鐘のひとつとして自然がおかしくなってきているというものまで。時間差で訪れる秋待ちの熱帯夜、冬の寒冷に靡きながら考えるに、おそらく、具体的な気温や湿度で「何か」を語っても、意味がないということで、それらの一要素がシステムの中で人為的に制御できるのか、しかなく、そのシステムが過去からの膨大なデータによる予防線に伴う命題設定としたならば、よくある「気象データだけ見れば、今夜は雨から、もしくは“雪になる可能性”が高い。」という際の雨と雪の差は生活者からすれば、雲泥の気象状態といえるものの、分析し、予報する側も幾ら見識が高まり、ビッグ・データを用いても、読み取れない閾値が拡がっていることでもある。バタフライ・エフェクトみたく、中国の黄砂渦巻く内地で蝶のほんの羽根のはためきで、遥か海を越えた北米大陸で竜巻が起こるなんて所作は、SF的でさえないのかもしれない。狭い日本でも地域が離れたら、竜巻や豪雨が起き、まったく無風で快晴の場もある、そんなケースも当たり前に散見できるようになってきたが、部分、断片性の問題ではなく、とても大規模な可逆不可性を帯びていたりする。アフリカ、インド、南アジアでの熱帯地域が大きく気候変動したときに崩れる、シリアスな生態系への影響や食糧を築きあげる農業への影響など、包含視座を持って、では、何が、というのはもう進んでいる研究のひとつとして。

ただ、条件付けとしても、気候変動や地球温暖化という大文字もショートカットの惹句になるので、幾つものモデルをリファレンスしたりしないといけない。有名どころの“DICEモデル”であったり、評価モデルから遠因への統合接線を敷き、同時に、石炭、石油、天然ガスを主とした化石燃料、炭素燃料により排出される“二酸化炭素”が主因に置かれているが、その二酸化炭素温室効果ガスとして置換過程のショートカットはまた限界があることも考える。排出された二酸化炭素が増え、温室効果ガスが大気中に長期「滞留」したらどうなるのか、滞留するほどに高まった濃度が水陸の温度上昇をもたらすのはわかるが、そこからどこまで派生してゆくのかとなると、人為的な文明活動の抑制だけでフィードバック効果の多寡ははかられなくもなる。ほんの未来に向けた環境意識へのフロー作成が「気づき、政策立案、部門選好」の通り一辺倒ではなく、経済学の概念「割引」に則って、現在財と将来財を比較検討し、時間価値との選好率を汲み取らないと、など対峙していると、二酸化炭素の対処プログラムとしての極度な森林プロジェクトやらラックナーの人工樹木辺りの題目が自然と目に飛び込んでくる。スーパー・ファーミングも精緻にそうなるが、新たな農園都市作成、という段階でのバジェットと外部要因が変容しているなかで、そのままで推進できる余白は今現在では“絞られる”はずなのだが、当時のまま、計画通り、アプローチは始まっている。でも、現場セクターでの人材も知財も明らかに不足し、情報は非対称化し続けている。代替リソースを探す手間も省かれたままに、というのが難渋なところで、というところで、気象工学分野の充実など世界的潮流として今後、増えていくのはいいような気がする。人文科学、社会科学分野の日本に限られたガラパゴス的削減とは全く別枠に。