above floated karma

「落語とは、人間の業の肯定である。」というのは故・五代目立川談志の有名な言だが、昔から色んな演題を聞き、寄席にも足を運んでいたものの、そこで描かれる人物は巧妙に狡猾だったり、間抜けだったり、ときにいい加減で、どうしようもなかったり、とつまり、今の人間の生態と変わらない、ありのままゆえの生きる業(ごう)が絡み合って一つの活き活きとした情景を浮かび上がらせる。ベースは、飲む・打つ・買うといった大衆生活のテーゼが普遍的に、可笑しみと艶っぽさを誘う。番頭、丁稚、夫婦、親子、長屋暮らし、お酒、博打、お茶屋遊びでのひと騒動、軽く“あの世を覗いてみる”所作、当世では言語そのものが禁句、廃語とは言わないが、文化的な倫理配慮の問題などで使えなくなっている言葉の膨らみが実のところ、良いサゲを生んでゆく。同じ演題でも表情のある噺家によってイメージする風景が変わってくるのもいい。名人と呼ばれる人じゃなくても、この演題はこの人が、というのはあるもので、そこもいいな、とつくづく思う。

***

落語に限らず、多くの体裁の整った日本語の機微とは感情や特定形質だけを指示せず、固有の伝統や大衆の中での語り草を当世に刈り取り、収めて、再び再伝承する際に、渋々排除されてしまうのは止むを得なくも、その言葉が死んだからといって、その言葉に該する事象が無くなる訳ではなく、「この健全な社会においてホームレスは居ない。」という建前の前提に、“ホームレス”という言葉の前は、その前はどうやって形容していたかと遡及してゆくと、あたかも言葉の変質によって、対象性を曖昧にせしめるような磁力を感じるとも思う。どんどん何かを説明できる言葉が増え、横文字が増え、簡略語も増える。時代の流れに任せて、それはそれでいい。分厚かったマニュアルを細心深く捲らずとも、盤石なソフト、システムで粗を周到に探してくれる。粗から零れた本質的な何かは問われぬまま、その言葉はいつの間にか、鮮度を喪ってしまう。鮮度というのに語弊があれば、博物館、資料館に収められてしまってはやはり可塑性がなくなってゆく訳で、ピン留めした知性と言葉は流動的な情報に外在化する。高速度で行き過ぎる情報が新しいのではなく、受け止めるべき、固定的と思える知、感性の方がフレキシブルで「動く」。昨日、録画しておいたドキュメンタリーは今日、もしくは一年後、見ても、「昨日の、ドキュメンタリー」で、その一日後、一年後に見た自身の知覚は明らかに、昨日とは違う。何を当たり前なことを、という議論になるかもしれないが、そこに置かれているものを見つけるか、見つけても見ぬふりするか、認知するか、認知のための理解の文脈を敷けるかというタイミングに位相が混線しているのに対し、フラット化すべきではない場合があり、そのフラット化された見出し、附箋がニュース・サイトのトップに並んでいても、恣意性が強固になっている発信サイドと、嗜好やルーティンでアクセスする受信サイドの意識はクラウドの中に巻き込まれるから、自分好みの見出し、記事、ニュースが並ぶ確率が増えれば、よりウチとソトの分線が厳然となされる。誰かにとっての宝物が誰かにとってはガラクタにしか映らなくても、ある種の感情論で否定するより、想像力や良識の閾内でウチもソトも往来しやすかったはずだったのがどうにも、粗雑にウチの論理でソトを排そうとしたり、ソトの論理でウチを囲もうとする姿勢の構え方が速い。ネット上のことで片付かないのは、実際に国の中だけでなく、民族間、国家間の軋みが露顕してきているのでわかるように、分からない“から”反対する、みたいなムードさえ生まれている。ムードだから「なぜ、その具象に反対するのか」という問いには理論的な前景より感情本位の後景の方が軽やかに映る。

―クールだから、目の前の波にのってみよう。人波に参加している自分は“ウチ”にちゃんと居るから問題ない、みたいなポージングからファッショナブルな秘匿帰属のピース・サインは何を希っているのか、分からなくなるが、そこまで解ろうとせずとも『地獄八景亡者戯』のよう、此岸と彼岸は鯖で中るか中らないか、河豚の肝を敢えて食べるか食べないかくらいのものとも思う。彼岸行路に提灯がともれば、懐かしい顔がちらほらと挨拶をかわし、三途の川も今や立派な豪華客船も停まっているのかもしれず、橋を渡す鬼も船賃を決めるのに難渋してそうだが、アルゴリズムが盤石に組まれて、システマティックになっているのかもしれない。もはや、「来年の話をしても鬼さえ笑ってくれない」かもしれない。この演目を聞くと想うが、生きることは大切だが、「死」が肥大し過ぎた無的な何かと考えて過ぎてしまうと、大事な生がカンナの削り粉になってしまうのも道理で、例えば、90年代後半から00年代前半の一時期の親近者の死がナラティヴの隆盛になっていたときの世界はセカイでどこか「遠かった」。遠かった分、愛しき近しい人を亡くすナラティヴがひとつの汎的装置性を帯びていたのだと思う。しかし、世界が近くなったようで、死の予感も包摂され始めてくると、初めから「死」で始まったりする。映画やアート作品でも、執拗な細部の反復とディストピアを描くことがデフォルトになってくると、現実との飛距離の分だけ強度を増すような要所もある分、「現実の方がマシだ。」となる倒錯が寧ろ、心地良くなるのは当然だろう。メタで超えられたはずの向こう側より、ベタで静的なこちら側に蹲踞しておいた方が多方面でリスク・ヘッジできる。ただ、何れにせよ―容赦なく、突然に「死」は不条理に存在体の総てを攫いもするには変わりない。誰かにとって無関心な死、誰かにとって自らの命を取られるより辛い死という場合があることほど左様に。

***

今年の三月に亡くなられた桂米朝の有名な挿話のひとつに、四代目桂米團治の兄弟弟子で頼りにしていた矢倉悦夫こと桂米之助が亡くなった知らせを大阪のホテル・ラウンジで呑んでいたときに聞いた折、少し考え込んだような沈黙のあと、丁度、酒の肴を頼もうとしていた彼はウエイターにそのまま「サイコロステーキを。」と言った、というのがある。それだけをして、非情だとは言えない。他にも大事な弟子を師匠として先に見送ったり、ということがあったり、と、ドライで居られるためのそこで自身の引き出しは哀悼の深い意と食(生きること)への欲とは明瞭に自己鍛錬の末、為されていたのだと思う。今の若者は不甲斐ない、とか、生命力がない、とかの言説が通るのは時代背景に収斂するのではなく、生きている、生きてきた環境や周辺状況、偶さかの要素に左右されるのだと思う。先ごろ、デング熱が流行ったときに、90歳代のお婆さんの投書で「若い頃、デング熱に罹ったが、薬も何もなかったのもあったが、乗り切った。」というのを見たが、おそらく、デング熱で難渋された方は当時でも居たはずで、ただ、今みたく、迅速にディスクローズされ、不特定多数に伝播し得なかったというだけだとも思う。ダイレクトで全く知らない他者の近況がぼんやり分かるのは幸福なのかどうかは問わず、死生観の内奥とは生きてきた、感じてきた人それぞれのアンテナの差異がある。出会わなければ、知らなければ、“その死”も重くならなかったはずだとも正論としてある。しかし、誰とも交わらず、出逢わず生きる月日とはどのような重力を持つのか、も考えてしまう。もちろん、何らかの事情でそういう月日をおくる人も居る。そして、そのまま終える人も居る。断じて、無意味ではないと思う。ただ、意味のある生というのも難しい概念で、後世に名を遺す人を受け継ぐのも人だとしたならば、墓碑銘の向こう側とはやはりこちら側じゃないか、と想いさえすることがある。

涙も枯れて、時間の流れが解決する様なうねりの中で、ハタと夢で残影がよぎれば、目が覚める。

目が覚めなければ、悼みは消えるのか、といえば、消えない。これだけ時代が足早に移ろえど、日本にお盆がなくならない理由も分かる。

***

それにしても、落語の奥行きはまた受け止める年齢や経験値で変わってくることを痛感する。江戸落語の人情噺、小噺、または古典もいいが、生来、上方落語の戦後からの苦難の過程、出てくる場所への想い入れ、演者の方の妙味に魅かれてしまう。五代目桂文枝、三代目桂春團治、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝の所謂、四天王は物心ついたときには前世代的に当たり前のように鎮座している大御所といったイメージを持っており、やはり桂枝雀のあの魅せるための落語といえるものが最初だったといえるかもしれないが、どちらにしても、日常生活に落語は馴染み、天王寺を巡る四方山話から、噺家の方とすれ違い、場所を共にすることもあった難波の心斎橋、道頓堀、法善寺横丁の劇場、喫茶店、飲食店。味のあるマスターやママが一座り幾らかで、多くの話をしてくれたこと。歌謡曲のロマンティシズム、昭和の時代の香り、手作りのミックスサンドなどが心身を緩やかに解し、適度な夜の帳と賑やかな外からの声、男女間の毎夜の駆け引きが五感を鎮静化させ、法善寺の水掛不動に柄杓で水を掛け、賽銭とともに願を掛けて、帰路につく時代もあった。バケツの水が少なくなっていたら、ポンプで水を入れておくのも勿論、忘れずに。美味しい珈琲をたてる喫茶店、程よく人懐っこさがあったデパート、怪しい映画館、昼から繁盛している居酒屋、軒先で摘まんだおでん串、兎角、を重ねてゆくと、興味があるものに体力が付いていかなくなってくる。その分だけ、世の流行り廃りに多少の目配せはしながら、芯たる人の業らしき何かに再度、降りてゆく感覚がある。健康であれば、それらも楽しめる。だから、健康を保持するため、病院へ行けば、何らかの病気、病気の予兆が診てもらえる。今の時代は早期発見で、かつては名前がつけられなかったような病気でも発見でき、治癒もできる可能性が高くなった。しかし、想い出すと、「夏の医者」という演題の枕で、桂米朝が藪医者の諸説に触れつつ、「寿命です。」、「手遅れやなぁ。」のどちらか二言を言われたら返す言葉がないとのくだりがあり、そういう生もまた、ひとつだという気もしないでもない。長寿の方法を考えるほどに長生きの世知辛さを想うのもまた、人間の業なのかもしれない。

八月があと一週間ほどで鱗雲を散らせば、春夏秋冬では区切れなくなった余白を穿つ新しい月、季節が巡り来る。それだけが解っていれば、明日までそんなに遠くないようで、俟つのは悪くない。