the way back of advance of civilization

最近では犯罪学の領域を越えて、「割れ窓理論」の概念があちこちで見受けられるようになった。ある建物の窓が一つ割れていると、その一つが危険察知していない、ヘッジしていない証左となり、他の窓も壊されてしまう、または建物本来の価値が落ちてしまうということだが、これが援用されて、ある先例が生まれてしまったら、後の二次被害を起こさないように、もしくは“先例が起きる前に”といったケースで、過度なまでに“割れている(だろう)窓を修復する”ための導線引きがこれまでだと気づかないところで行なわれているものの、指紋認証とカードロック、更に照合の度合が厳しくなる施設に入る際には、管理されている怖さより、誰もが誰をも分かり得なくなっている想像力、忖度の幅の分だけ、非の打ち所がない正論といおうか、もっともらしい決まり事が雁字搦めに「個」を縛り付けてゆくような感覚の窮屈さも想うようになってくる。例えば、イベントやアミューズメント・パークに行くと、予めの規制と個々の自由意志の中で羽目を外せる訳だが、列は並ぶものという暗黙の共通認識のような何かが崩れ出しているときに、列に割り込んだ人と喧嘩をする、喧嘩で傷を負う、そんなことが起きると、今では即座に情報の伝播が為されやすいのもあり、示談で済んでいたような症例さえ、第三者のジャッジやただの意見が介入したりしてしまう。

敷衍するに、その小さなレベルの事象が倫理観、宗教観、民族間と混ざり合い、環境要因まで撹拌してしまうと、モラル・ハラスメントなど幾つもの条件制約に該する。子供が欲しくても、色んな事情で持てない人がSNSの微笑ましい知己、または誰かの子供の写真に落ち込んだり、見ないようにすべく距離を置いたり、飲食に対する文化が違う人たちには禁忌たる食を載せることが問題になったり、おそらく、何気なくしている「当たり前」の無意識の善意らしき何かが膨大な悪意の束とまではいかず、無配慮、割れた窓を作り出すケースもある。動物、子供、景観、はたまた、友人、恋人等と「共有」し合える場を誰かと「共有」する際の飛距離の細心さはシビアになっているようで、先日、少し足を運んだ炎天下のイベントではセルフィーのみならず、膨大な量のデータ、写真がその場で発信されて、「今、ここにいます」という所在のための(自)意識を非所在の外へ投げ出している集合的無意識のような何かに中って、考え込んでしまった。自身が旧い人間になってゆくだけならばいいし、一回り世代が変われば、その世代なりの幸せや楽しみの追求の仕方、また、コミュニケーションの形式も変わり、効率も良くなる。技術の変遷を除いても、効率の良さ、コスト・パフォーマンスの良さはこの10年、劇的だと目を見張るし、やはりストレスフルに重たい負荷でやらざるを得なかったときよりは今の方が何かと便利で、「昔と今」は感覚論の是非より、フィールドに依拠するとつくづく思う。キーボード、タッチペン、音声認識と出てきても、やはり実際に書く所作は大事だし、書くためには鉛筆と紙が要る。読み書きができない状態だったり、鉛筆と紙がなければ、必死に憶える。憶えたものは伝承や教授の形で受け継がれる。ベースは変わらない。異国語習得の前に自国語をしっかりやらないと、というのも同じことだろう。そして、パラレルに“同じ(ような)題目”で話していても、噛み合わないことが増えたと感じても、その機会が増えたというだけで、ベースはお互いに噛み合えない場で、歩み寄ろうとする配慮がかろうじて繋ぎとめていた関係性の力学がコミュニケーションやネットワークと言えたのかもしれないが、時期が来れば、巣穴に還ることも是で、その時期が早いか遅いかは当人にしかわからない。大事な何かを手放すとき、手放そうとしているとき、人間は基本、高貴な沈黙をなぞることがある。黙した覚悟を持った人は長い帰り道を歩いている。帰り道に声を掛けるべきではなく、せめて、帰路の安全を願っておくしかない。でも、その高貴な沈黙たる帰り道にまで割れ窓理論に沿い、街燈が設置され、喧しいアナウンスが付きまとうようになれば、どうなのだろう。無事の帰路についた後、交わせるはずだった挨拶さえ霧消してしまうケースも出てくる。

賑やかな行路を折り返しての、帰り道は出来るだけ静かに越したことはない。