money isn't money pt.1

春先で世知辛いものの、庶務で貨幣論の色んな束を紐解いている。「貨幣」という固い言い方じゃなければ、お金、MONEY。どうも、元々、曖昧な概念に尾びれがついて、お金が在るものになっている現状が過熱している。いや、お金は確かに「ある」のだけど、そのものには価値はなく(GOLDの“金”は別として)、媒介手段としての暗黙の合意形成があるだけで、実際に何なのだろうと思うときがある人も多いかもしれない。例えば、昔、買い物などでボロボロの千円札などが回ってくると、早く手放すといい、なんてことを言われたり、金は天下の回り物っていうのはエクスキューズではなく、何となく「お金そのものの話」は卑しさを帯びていた前提があったりしたのだが、今は「お金持ち」とは「富裕層」を暗に差すようになり、その「富裕層」は幸せの指標に格納されたりするのを見ると、いや、ちょっとどうなのだろうと感じる。日本もカード社会になったけれど、やはり、都度、現物の貨幣も勿論、使われる。最近では、海外の旅行客が分厚い束の1万円札をピン留めしている光景も珍しくなくなったものの、逆に自分が新興国に行くと、スキミングなどに警戒して(そればかりではないが)、現地通貨の束を置いたりしているのを考えると、つくづく「取引」手段として用いるときに不思議で、不便な代物だと思う。

今や投資や投機で、在るはずのお金で現実を等価ではなくとも、動かせる世の中で、アベノミクスで「得した、損した」なんてことより、ハリウッド映画の『ウルフ・オン・ザ・ストリート』に倣うまでもなく、ウォール街の一部はいまだにどう機能しているのか、精確に答えるには何だか、そんなクレバーな仕組みで成り立っている訳ではないことが分かるからでもあり、だから、トマ・ピケティやら資本論の再考が騒がれる瀬は、それだけお金じゃなく、資本市場の血流の巡りの悪さを考えないといけない時代になったということで、とても不健康なのだとも思う。いや、「不健康」だと言っても、字義どおりではなく、資本主義や高度な自由市場主義が発展すれば、“相互信頼ベースの貨幣”が揺らぐ分だけ厄介だな、というくらいで、そこで翻弄されるほど、貨幣とはそんな大層な尺度なのかとなると、尺度としてはかなり杜撰なのも正直なところで、そこで、「国際経済学をやって、経済を学びましょう」というのは余計、複雑な迷路に入り込むことも多い。難解な数式が並んで、ケインズが、いや、マルクスが、なんてのは一般教養で触れたりしたら、どうにも「経済とは。」というお題目が高尚に映り、ますます目の前の市場は遠のくことがある。

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閑話休題。例えば、借款があってもやっていけるのは、返す見込みがあるという訳ではなかったりするのに、額面の借款で世界の先進国の日本は、と語られると、もれなく少子高齢化やこの頃では地方消滅都市などの話題も付いてくる。でも、国家の単位の信認性があるから、すぐには「円」は消えない。消えないという言い方がおかしいなら、円という言語はなくならない。それより、なくなりそうな、貴重な言語を気にした方がいいと個人的に思う。言語って無くなったら、復元するのは相当に難渋なのだが、例えば、「ユーロ」という一単位で多方面から話そうとしている現状を考えると、貨幣論というのも闇鍋みたいなものかもと改めて複雑な感情になる。となると、政治学地政学リスクまで含めて腹を割って、話そうという「言語」じゃない証左であるからで、難しい。地域通貨が言うほど成功しにくいのは、こういうところがある。ある小さい共同体で通じる「貨幣」を産官学連携などのプロジェクトで刷る。でも、結果、それぞれの言い分で拗れてしまうケースが多い。産側は直接に潤ってくれないと、意味がなく、その商店街から撤退しないといけなくなるし、官側はもう少し悠長に、先々を見越して、地の人じゃなく、観光客も、なんてことをやるし、学側は理論形成に勤しんだりする。という間に、結局、価値そのものの賞味期限が過ぎてしまう。少し話が逸れるが、ポイント・カードが増えすぎたのはそういうのとは違って、「代用通貨」だから、本体ありきで成り立つ。本体が盤石ならばこそ、成り立つという意味ではまだまだ健康な世の中だとも捉えられるけれど、ポイントが加点されるのは相当、グレーな領域も帯びる。

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自分が幼少の頃、今もあるのだろうが、時に折、「肩たたき券」や「食器洗い券」など紙を切って作ったりしたものだが、家庭内で通じる価値で、実労働力で具体的経済価値に換算され得ないところでは、無意味かもしれずとも、それで家族の中が潤滑に巡るなら、抽象的にでも経済価値はあったのだと思う。経済とは大きな社会市場ばかりを指す訳でもないからで、家庭にも「経済」はあるからで、となると、細かい話になるので、別途にして。

また、生活の変化や相対的価値の変化で、意味が変わってしまうものに貨幣論をあてがうのも野暮になってくる気がする。肩が凝るくらいのハードカバーの専門書籍に10,000円を払うなら、タブレット版で要旨を掴んで、図書館で借りれば、快適なのは言わずもがなだし、書き込んだり、実際に線を敷きたいなら、ワンクリックで注文できる。何かを買う行為は「手間」でも、「無駄」ではなく、「無駄」じゃない「手間」を試す順序は昔から比べると、膨大な数になった。それは悪いことじゃないと思う。語学を学ぶのでも、留学せずとも、オンラインで講座を受けて、ある程度、様子見をして投資できたりするタイミングをはかれるし、本当に欲しいものの優先順位は各々で保管している。いまだに、東京タワーとか世界の名所で絵葉書やメダルなんて売っているけど、やっぱり人間はどこか非合理だから、想い出を買うから、残り続けるものもあって、観光地で写真撮られて、1,500円って商売が成り立つのは、一日の食費の1,500円とは“別物”と考えた方がいい。昼の500円ランチであれこれ考え尽くす時間と、作りの粗いフォトスタンド付きの写真、1,500円に費やされる意味コストの問題もあるとして。

或る人が「死ぬまでの夢に、スペインのサグラダ・ファミリアを観に行きたい。」と言ったとして、その夢が叶った際の実コストはとてつもなく高いが、安い。でも、或る人が「大金持ちになりたい。」と言うとしたら、それは比較にならない。お金持ちになったら、スペインに何度も行けるかもしれないが、そういう問題じゃない。貨幣も「在る」、とされる言語が通用するうちにやり取りしておかないと、いつの間にか通じなくなる、そんなくらいのものだと思っておいていいくらいの気構えで成り立つ要素もある。