サザンオールスターズ『葡萄』を通じて見える遠望

《悲しい事は 言葉に換え 星を見上げて そっと歌うといいよ》
(「アロエ」)

自分にとってサザンオールスターズとはいつも距離感のあるバンドで、それは、比較はできないものの、ミスチルスピッツといった90年代から今に続くバンドに思春期が適応したというのもあるものの、時に巨大な装置性を拗らせたようなところがあり、とても真面目にふざけているクレバーさ、下世話さ、偽悪性と聡明さのバランスが合わなかったのかもしれないと思い返しもする。だからでもないが、いわゆる、90年代後半からの実験期といってもいいシングル「01MESSENGER〜電子狂の詩〜」、「PARADISE」などに微笑ましさを感じ、そして、模索の00年代に対してのレディオヘッドプロディジーなど同時代性の音楽や前衛性に対してあまりに勉強熱心なところと、桑田佳祐という才人がソロに戻ったときに見せるジョン・レノンボブ・ディランなどのルーツ・ミュージックへの真摯さと歌謡曲や“うたごころ”の心構えへの在り方が野暮ったく映ったのも否めないが、今回、『葡萄』というあくまでサザン名義のオリジナル・アルバムとしては10年振りとなるアルバムを聴いていて、グッとくる瞬間が何度もある。自身の加齢のせいではないと補足して。

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『葡萄』のタイトルは作家の故・渡辺淳一氏の同名処女作からインスパイアされ、字面や言葉の響きから付されたというが、あくまで深い意味としてではなく、暖簾としてのものなのだろう。そして、暖簾の奥には決して目新しい何かが行なわれている訳ではなく、80年代的なディスコ、アメリカン・ブルーズなどのルーツ・ミュージック、ハードロック、ナイアガラ・サウンド、タンゴ、バート・バカラック筒美京平のような大きなポップス、ストリングスの入った壮大なバラッド、ザラッとした質感のフォークまで、数多の音楽の先達、歴史へのオマージュに溢れ、サザンの来し方そのものを網羅してみせるが、桑田佳祐紫綬褒章を受章したときの言葉から今作のキャッチコピーにもつけられている“大衆”芸能、音楽への殉教振りが寧ろ、心地良くあり、それはドリフターズのコントが、『寅さん』の映画がもう結末が分かっていても、つい観てしまう強度を持つような、知っているものをなぞり直してくれる安心があるからかもしれない。

故・音楽評論家の中村とうよう氏も“大衆”音楽ということをよく論じていた。例えば、三味線奏者の桃山春衣の1981年のセカンド・アルバム『遊びをせんとや生まれけん』を彼がプロデュースした際に、平安時代末期の民衆の歌を集めた「梁塵秘抄」から歌詞を取り、彼女が曲を付けたことに深く言及している。以下、『中村とうようアンソロジー』(MUSIC MAGAZINE増刊、主に、p157〜p158)から一部、引用、意訳しつつ、附箋を貼る。

梁塵秘抄」は、平安末期に編纂された歌謡集である。「古今集」などのような歌集と違って、当時の一般大衆が日常生活の中で実際に歌っていた歌謡、ハヤリうたを集めたものだ。平安末期という時代は、大きな転換期だった。聖徳太子たちが中国から学んだ政治組織で天皇を頂点とする日本の古代国家の基礎をかためた律令体制が崩れた動乱の中で、民衆の間に新しい歌が発生した。その発生過程をして、中国文化の影響を強く受けていた平安時代から日本独自の文化が育つ鎌倉、室町時代への移行期に、日本固有の大衆文化の最初の芽生えとして歌が出てきたということだったのかもしれない、と述べる。

ここで、「鎌倉」という地名にピンときた人は居ると思う。

1985年にサザンオールスターズはまさに『KAMAKURA』という二枚組の大作をリリースしている。彼らにとってもアナログとコンピューターの過渡期に奮闘した軌跡が刻まれた多彩な内容に富み、同時にあまりに、時代的な音でもあったといえる。ただ、昨年の年越しライヴではではここから「死体置場でロマンスを」、「Computer Children」、「鎌倉物語」なんていう流れがあったりする。そして、新作の中には「イヤな事だらけの世の中で」という、「梁塵秘抄」に入っていてもおかしくないような、”京”をモティーフにした今様(いまよう)な恋歌が入っている。

《イヤな事だらけの世の中で
登る坂道は向かい風
あの懐かしい日の想い出が
酔えば身に染む 涙ホロリ》

(「イヤな事だらけの世の中で」)

曲名だけ見れば、世知辛く思えるが、桑田自身は長屋の時代から普段から「やだやだ」と言いながらも懸命に生きてきた日本人の精神性を掬ったものだと取材で言っている。前述の「梁塵秘抄」の今様は、貴族や武士の縛りじゃない乱世の狭間の“遊び”の徒から生まれた事実に遡求すれば、“大衆”という意味に拘った理由がおのずと浮かんでくる。“賀茂川”を巡るところなど、特に。サザンにしても、2009年以降の無期限活動休止から2013年の活動35周年を機にした活動再開での間の時代の変化は異様だったといえた。天変地異や人為的な事件、世界情勢の軋みから、彼らの携わる音楽の在り方も配信がメインになったり、数年ほどとは思えない次元で。ゆえに、そこでやはり、『KAMAKURA』を想い出し、大衆(音楽)の強さを再確認しようともしたのかもしれない、と穿ったりもしてしまう。

逆に言えば、ここまで、角、エッジの矯められた拓かれたサウンドと、日本語の機微に拘った歌詞、4分間ほどの間にだけ見える「うた」の丁寧な手続きを経たまどろっこしさは”同時代の速さ”と親密にはそぐわない、と言えるのだろうし、快適に、効率的に、即効的に、といえる瀬では知的で少し余裕のある大人の所作と思えてしまう要素も含んでいるものの、百科事典でたまたま捲った項目が気になって掘り下げたことが後々に自身にとって大きな知識や意味になったりするみたく、この『葡萄』から拡がる景色は既視感より、遠望性を持つのではないか、と想いもする。そもそも、人間の心臓の鼓動のBPMは60〜120といわれる。BPMとは一分間に刻むビートの数で、どこかで音楽を語る際に使われているのを見たことがあるだろうが、最近はBPM180なんて当たり前で、よく考えると「身体に悪い」といえるものの、身体に悪いものほど快楽性が高かったりするから難しい。その点、このアルバムのリズムはしっかりと落とされている。

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懐かしい友達、知己に会うと、時間が巻き戻されるよう、年齢関係なく、話題そのものが若くなったり、一杯のコーヒー、紅茶で何時間もあっという間に過ぎてしまったりする経験がある人は居ると思うが、そのときの「体感時間」は全く別種の時間論を縫うような気がしないだろうか。共有体験、共有知識がある分だけ“言わなくても”という前提条件のために割く時間、体力、ストレスは減る。しかしながら、その“言わなくても”という条件性がときに「労働」と呼ばれる代替性を帯びるから、時間、体力、ストレスを割き、生活に変換するケースも出てくる。どんな分野でも、専門家と呼ばれる人に大きなテーゼを聞いたら、「いずれ分かるよ。」と返すのはあながち間違いじゃない。怠慢な場合もあるが、勉励や年齢を重ねて、分かることは多い。そして、重ねたがゆえに余計に分からなくなる。都度、人それぞれ、原点に回帰、確認するという所作は行なわれるだろうが、無論、そんな単純なものではなく、人それぞれによっての生の重みの分だけ幾重にも結われる。

今作の中に「はっぴぃえんど」という、日本の伝説的なバンドそのままを付した曲があるが、曲そのものも流麗なシティー・ポップで亡き大滝詠一の影から、彼らの愛する湘南の潮風の香りが漂ってくるような情感あふれたものになっている。桑田自身が今作は歌詞に難渋したと言っているが、ここでの歌詞のフレーズも染み入るものがある。海街の風、旅の途中で預ける羅針盤、夢と希望が描かれる五線譜、昇る朝日が歌うボサノヴァ、そして、《ボクより長く生きる君よ》なんてフレーズが託される。メンバーへのラブソング、桑田自身の病気を経て、至った境地がある背景の奥に、個の心情が掘り下げられると、普遍的に響く証左なのかもしれず、個人的に数え切れず浮かんだ情景があった。もはや、この世にはいない人、ない景色がそこには含まれていて、そういったところまでリーチできるのが音楽や芸術の強みなのだと思う。リアリティの型枠の決まりきった解釈を同じ頭で答え合わせするのもいいが、答えや解釈は沢山あった方がいいときもある。公的な試験、ある程度の共通の言葉などは必要だが、皆それぞれ固有の道を生きている。その道が時おり他の誰かと交叉するから面白くもあるが、価値観の相違、意見の齟齬はあって然るべきで、“同調圧力”という概念くらい進行形で鑑みれば、場合によって味気ないものはないと思う。

だからなのか、「ピースとハイライト」の《歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない》というのは全く荒唐無稽で大文字の響きじゃなく、今はしみじみサザンの声として聞こえる。戦後から70年になり、世界情勢が変わり、尚且つ日本の国内の状況も変わっていく中では、教科書通りの意見は無意味にしかなり得ないことがあり、「戦争はいけない」、「平和が何より」と一言で云っても、伝わり難い現状があるのは確かで、でも、暗黙の総意で規律、モラルを守っていこうという底流する何かは在る。昨今の「日本人のマナー、民度に感心する」という類いの言論はもっともかもしれないが、当然、総てではなく、底割れしてきている部分も出てきている。確かに、他の国、地域では在り得ないかもしれない整然とした行列の並び方、配慮、気配りなどはあるものの、見えているところだけではないところで、礼節、作法は混線してきてはいる。グローバリゼーションで喪われたものを探すより明らかに。

無論、そういったマクロ大の千差万別な懸念と、あくまで「個」としてささやかに生きる最小単位の生まで跨ぎ、難解にならず、『葡萄』からは制作作業の苦心惨憺の末の痕やサザンオールスターズという大看板を掲げ、キャリアを重ねてきたがゆえの渋み、重みより、ほんの少し先の未来に向けた約束状に似た軽やかさが漂う。2015年という時代性を鑑みたところも散見されるが、以前ほど同時代的な何かに極端に振り切れるのでもなく、聴き手を困惑させ、置いてゆくのでもなく、心地良い大衆音楽としての温度が通っている。そして、機能的に統一化された文字群やショートカットされた物言いではなく、毛筆でしたためる味わいのある手紙みたく、インクの跡が滲む人あたたかさ、癖が妙に染む。

《この世に生かされて 悪いことも良いことも
どんな時代だろうと 人間が見る夢は同じさ》

(「平和の鐘が鳴る」)