桜狩りて、

この数年ほどは桜の粋さ、儚さに魅かれて、膨大に「桜狩り」に出かけたものですが、おそらく、眼福としてのそれ以外に、伐採されましたり、時代の趨勢で変わりゆく景色の中で聳え立つ存在性にアディクトしていたような気が改めてします。桜もそうですが、何でも「終わり(しるべ)」の施錠をすることは容易で、維持する行為性の艱難さを想います。維持するための具体的な労力、知識、時間、それらは一朝一夕で育まれるものではなく、過去から連綿と続きます歴史性の中での「個の、集積体」で、大きな枝垂れ桜を愛でることができるのはその背景の奥行きを偲べるからで、たとえば、西行法師が遺した「願はくは花の下にて春死なむ」という有名な句に倣わずとも、春には幾重もの綾のような風の香りがします。この時節に、街で花束を持っている人が目出度いことなのか、一区切りの証なのか、または別の、そんなことに敏感にある限り、昨年と同じような道に並ぶ街路樹に同じはないのだ、と痛切に心に染みます。

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かつてから、知っていた場所が空き地に、空白になるたびに嘆息することもあったものの、記憶の中に残響し続ける限り、その場所は褪せなく、巡ることも歳を重ねるごとに気付きます。目の前の華やかで輝かしい未来的なオブジェが今を照らす訳ではときになくても、高速度に刈り取られてしまう最大幸福の象徴が分離していったとしても、エッシャーの騙し絵のような磁力に引っ張られている可能性は、ふとした瞬間に気付く軒先にできたスズメの巣や、知己からの久し振りの便りで知るささやかな日々の贅沢な囀りを思い返せば、否定できません。「主食は何ですか」という問いにも近く。

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翻りますに、いつもほんの目の前の子供の成長に追いつかないと言う人たちは、膨大な写真や動画の束を前に、ただ今、現実の目の前の子供は「親の記憶を携えて生きる」わけで、そういう意味で、分断される線はミシェル・フーコー的な連続・非連続の概念の間を縫うのかもしれません。

しかしながら、連続・断絶性という文脈を課しますと、ウッディ・アレンの新作はマジカルなのはまた、良いのは老境ゆえの、ではないでしょう、ゴダール然り。そういえば、ゴダールの3D映画は評論筋では、成功と聞いていますものの、ゴダールの成功とは歴史考証学的にバック・ビートの誤差がありますゆえに、個人的には観たゆえに、“HERE”で居たいと思っています。“THERE”には、冷ややかな温度が立ち昇る換喩的な非・権威装置への適度でアンニュイ、そもそも、アンニュイ自体が気怠く、思考的に面映ゆい示唆を含みますがゆえに、ゴダール的転回には相応しくないのですが、照応性の一端として、昔日のノーラン渾身の伏線回収のための”無理をした”SF映画インターステラー』がアシッドな時期のコッポラの某・迷作と並べられます時代性を帯びますから、結果的には、モノリスが突き刺さった場とは、ここではない、どこかではなく、どこかでもない、ここでもなく、ブラックホールに近づくほどに捻じれる総量をはかるための時間論なのかもしれません。そこでは、あとどれくらい分保持できるかの食糧、資源、酸素のカウントダウンが始まっていますが、今は極端に振り切れないとしましても、衛星状に廻っていることは「生きる」ことの当たり前ではなく、「生き延びる」ことの蓋然性への何重もの防衛機制が過度に個の領域を離れていっている、そんな思いも得ます。ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグが至って「健康」で、ハリウッド・ノワール不整脈を起こしかけているなんて二軸は全く無意味としましても。

今のトレンドじゃない、下位構造に着実に侵食されています病巣があり、でも、階層構造を網羅できるほどには「親切な世ではなくなっている」といえます。溢れ出る情報と、完全に堰止めされた現実。数年前なら、「自身のリアルを生きた方がいいよ。」と言えたものが、そうではなくなっているイロニカルで、自発的な意思も寧ろ管理されているシビアな、統制性。消えた言葉は、届かない訳ではなくて、届く前に、いつかのハレー彗星騒ぎのようにタイヤのチューブを咥えている間に、しっかり届いているということ。ぼんやり、新しい年を、そして、新しい世界地図を見渡しますと、国境線で綱渡りしている人たちの多さに今さら、驚きもします。

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年々、自身も誕生日を迎え、歳を重ねることが決して賑やかしく良いことばかりではないとしましても、在るということは、来るべき過去的な何かを待ち続ける突発的で、やや危ういハプニングに終始し、自身への花束を手向けるには“まだ、時間は余っている“―そんな野暮な物言いは功利主義的な瀬では危うい精神論に抵触する気もしますが、死に際を選べないのと同じくして、日々の天気や少しの変化による生の手触りは生々しく迫ってきています。

但し、生々しさとは、一回性の死的な何かと近接しますがゆえに、悪くなく。そこから、始まり直すからでもあります。