yet yes

今は葬式でさえ、簡略化され、ネット越しに少数でストレスなく行なえる。逆に、祭式でさえ。関係者、親族を集める労力を思えば、事後報告で心理的、経済的、諸々のコストを削減すればいいというのは短絡的な話で、以前は、式次第は「関係力学」のための催し事の一環であり、なぜに地域によれば、三日三晩も祝うことも悼むことも行なうのか、それは行なう意味ではなく、行なう意義により、禊がれる(と信じられる)共有言語をある一定の場である時間で、保つことが「できた」、その「できたこと」でその後の関係の力学が均衡性を帯びる可能性がある、とも言えたのかもしれない。以前に、訪れたことがある病院では院内に葬儀場があり、近くの斎場とも連携が取れており、亡くなったら、医者から看護師、ケア・スタッフが並び、敬礼し、霊柩車の見送りまでしてくれて、ひとつの流れでパッケージングされているかのような「死」をおくる形があった。無論、死者側からしたらそんなパッケージングの現状は知る由もない。ただ、おくる者としたら、幾つもの心の手続きを経ないまま、斎場で待つ「時間」だけが鋭利に過ぎた。その後、生前の姿を想い出すことに何度もなるが、どんな年齢でもどんな病気でも“天寿を全うした“と思えない場合は生きている”私“の感情ではなく、うまく手を振る手続き、契約を出来ていなかったからではないか、と憾みもする。

大病を患い、または、それ以外でも介護のために、自分の人生が割かれてしまうケースは尽きない。周囲で、母親の介護をずっと行ない、無事に見送ったら、20年が過ぎていたという女性が居た。費用的な問題のみならず、自身の親、または近しい人を想う、庇うことは表裏一体で、ときに残酷なくらい現実に追い詰められる。「その時」が来たら考えたらいいという間に、「その時」は来たら、心構えだけじゃ足りない状況にすぐに陥ってしまう。ボタンの掛け違えというより、ボタン・ホールが以前とは違う中に、以前どおりのボタンを「合わせ」ようとすると、無理が出る。無理が重なれば、道理も通らない。自然と視望が梗塞を起こしてしまったときに、違う道を探そうかとなるが、パスポートでさえ回収されてしまう時世に、違う道とは人の数だけあるようで、ない。

***

初めてパスポート(それじゃなくても、公的資格証)を取ったときのことを憶えている人は居るだろう。幾つもの書類、審査を受け、発行された現物を手にしたときに、所属性とともに、承認性を得た「感覚」をおぼえた、いや、それによってどこへでも、どこかへ行ける場所が拡がる、そんな知覚はなかっただろうか。自分の場合は、パスポートが海外だと「命の次に大事だ。」というのを思い知った瞬間があったのもあるが、同時に、パスポートを更新するたびに、最初に感覚がリワインドする。あの頃は良かったのか、とは言える訳はなくても、何事も”初めて“というのは緊張と昂揚が入り混じる。初めてのデート、初めての一人旅、初めての給料、初めての祝事、初めての高い買い物、初めての絶望に近い現実、初めての天変地異、初めての希望としか言いようのない出来事、繰り返す朝と夜が国境を越えれば、真新しくなる初めて、初めての出会い、擦り減った別れ。何事も踏み出せば、初めてになる。でも、人間は慣れてしまう、憶えてしまう。インドネシアからの留学生を寿司屋に連れていけば、「こんな味があるなんて。」と言っていたのはほんの数年前のことで、当時、既に30代前半だったその方も今はマグロからイカ、ウニの軍艦巻きまで現地で時おり嗜んでいる。その一人の留学生だけの話じゃないのは言わずもがなだが、美味しいものは美味しい。美しいものは美しい。かもしれないが、絶対基準はなく、相対基準がある。今の自身の味覚では、厚揚げ豆腐に少しの生姜、大根おろし、鰹節、醤油を添えたシンプルな料理が美味しかったり、オニオン・スープを飲むと、心身が和らぐ。一時期は、お酒とともに食べていた奢侈な景色は今は、そう欲しいと思わなくなった。

初めてビールを飲んだ時、こんな苦くて美味しくないものはないと思ったが、一日、精一杯生きて、疲れた後の一杯は美味しいと思った。何でも慣れるが、何でも停まれば、戻る。こんな生き方をしていたのだなと我に返れば、「そこ」はもう自分では花霞の先にあるようで、「ここ」が大切になってくる。花に埋めた道も掘り下げれば、足跡が幾重にあることに気付くように。

***

知ってた? 愛しい の 文字は
過ぎ去ったもの 慈しむ姿
あとからやっと気づくこと
振り返る頃には

(「yet」、クラムボン

クラムボンの久しぶりとなる新曲には胸を掴まれた。四方に光が放たれるようで、それでいて、彼ららしい機知が活かされたポップでサイケデリックな麗しさを帯びている。華美なストリングスの絡み方まで過剰なまでに前、未来に向けたような歌。彼らを教えてもらったのは、もう久しく話も会いもしていないが、大学の頃の友人で、彼は自分の歩幅で着実に生きているのがFacebookなど、写真や便りで届くだけで、それ以上のことはない。誰でも、便りが途絶えたら、「何か」あるときで、その「何か」は良いことではない瀬なのはわかっている。でも、“まだ”、が個々の理由分だけあるならば、そう焦ることはなく、来るべきときに来るべき辛苦に対峙することそのものに大差はない気がする。

しっかり手続きを取っても、過去の数々の道標が折れているとしても、託された未来に然程、制限はないのは変わりなく、新たに道標を立て直していけば、伝わってもいく。

yet(特典ポストカードなし)

yet(特典ポストカードなし)