mind in sandstorm

年の瀬に邦訳書が出たのもありますが、トマ・ピケティ・ブームが来ているようです。それは寧ろ、元来の経済学的なフレームで「格差」という命題を扱ったというトピックではなく、社会科学、人文科学畑のタームで、いつかの『帝国』の“マルチチュード”ブームを個人的に彷彿させます。先走りしています、一部富裕層がより富み、牛耳ってゆくというポスト・ニュー・レフト的な言は抽象化はされず、自明でありますがゆえに捏造、複写され得ません形で、ピケティが歴史の長い流れから指摘したというのはこの現代という金融経済がシステム・コントロールを行ない、底支えする実態経済がどこか妙なリアリズムと拮抗されてしまう瀬では前提条件に思える、という反応もありますが、それでも、労働の価値基準が急激に変わっていますから、もはや「格差論」で議論をテーブルにのせましても、意味があまりないようにも個人的に思えます。であるならば、既存市場で通じていただろう言葉を改変して、新しい言語体系で意味を求める場を創生すればいいのでは、とさえ。そこに競争のための倫理性が付与されますのは必要条件としまして。

とはいいましても、ピケティのような何百ページの専門書が10万部以上、売れるというのは、時代的な要請はあるのですが、精緻にはそうではなく、社会へと要請をする「個」の集積されました思考的な切実さがある訳だとも思います。その点では、今の座標軸は別にしましても、昨今のスピリチュアル、自己啓発本の趨勢は、残酷な世情を読みました内在的な個々の“ムード”なのかもしれません。

今に、読み返す必然性のない内容でも、知性には熱量が伴います。この2015年に、バブルが来ていると言えますのは、大手の法人税減税を受けます企業、不動産関係や投信、またはある程度の業種に絞られますでしょうし、恩恵を被っていないのに、80年代後半のバブルと比して論ずるには金融経済論内でのミスマッチ的な意味性が包含するように思えます。「今更、格差は論じるまでもない」という声とともに。ただ、寧ろ、実体経済論で「家計」に降りていきますには、春先から乳製品が値上げされるし、年金はスライド・オフされるし、3月期決算を前に、複合的に危うい状況がくるのではないかという憂慮が株式市場では喧しいですし、でも、そういった表層情報群では乖離して、汎的メディアでは一部情報しか流されないわけで、その一部情報はより偏向しています。

知り合いの子供が埼玉に住んでいまして、まだ三歳ほどなのですが、甲状腺に明らかな異常がみつかり、思えば、”そういった事実“は考えますほどに、どうにもヘビーです。無論、自身が何も把握している訳ではないものの、フィルタリング以前の事象が増えすぎているのはぼんやり今、感じます。遠路から、京都まで癌治療に来た家族に聞きました話でも、後に主治医に聞いた話でも、フラットに新聞、大手メディア(大手、というのも幻惑的な言葉ですが)には載らないのでしょうし、そういったことは載せるとNGなのかもしれません。

先ごろ、アニマル・プラネットというプログラムの「捕食」の特集を観ていましたが、けがをしていたり、で、本当に弱いものは捕獲しない、というのがあり、そう考えていきますと、市場とは本当は弱くなくても、退出させてしまう機制が動いてしまうのは人間の「理知」の範囲のことなのか、といいますと全くそうではない、となりますと「道徳」の再復興とは、どのラインでの道徳性を育むのか、考えたりもします。その線は相互的共通性がほぼなくなってきていますがゆえに、相手の想像力に、理知に任せますと言いますには、位相が違いすぎるような気がします。重症化していますのは、ある種の相対的知性なのかもしれません。物言わずとも、制度改変されました中では砂塵に提案は消えます。