スガシカオ―パラレルに拓かれるセカイ

ぼく一人 だけになったら“死”と同じだから
自分殺して 過ごした 沈んだ
プールの底のような日々

(「モノラルセカイ」)

プールの底のような日々から、仰ぎ見る太陽は不思議な揺らぎとともに、柔らかな光の優しさ/遠さをもって目に映る。スガシカオが時おり描く”底”は、太陽が見えないようなところではなく、今回であれば、プールであるゆえに救いがあるとも思う。過去曲、「光の川」では、都会の喧騒、車を通しての光を求めようとするのと比して、「モノラルセカイ」では、最近の彼の意思もしっかり反映されている光がよぎる。

***

2014、いや、毎年のノーベル賞の騒ぎは別に、作家としての村上春樹氏のパッシヴな影響力の大きさはどんな場所でも感じる。日本での“ハルキスト”の方々以外でも―。

自身でも、もう10年以上前にもなる大学のキャンパスでは村上春樹氏の著書を面出ししたクリアーファイルを肩脇にかかえて、スタイルを保っている方が男女問わず多かった。自身は、時代遅れ的な実存主義に魅かれていたのもあり、大江健三郎氏の初中期の作品群や、サルトルのペーパーバックを持っていたので、夕暮れ時の京都の真ん中、京都御所に近い場所で今も続く長い付き合いの知己に「難渋だね。」と言われもした。その後、中国語の普通話、フランス語など多様な言語で村上氏の作品を読むと、余白が活きてくることがある。それは、『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』などに限定されず、寧ろ、『パン屋襲撃』辺りの短篇ノヴェルに感応もする。なお、いまだに、『アンダーグラウンド』関連のジェット・ラグと内容の意味は筆者には精確にわからない。
何らかのプライズは別に取らなくても、十二分に世界的に拓けた作家としての要件を備えているのは、”個”たる関係性、性的描写の奥底まで入り込むことで歴史と連結できるような錯覚をもたらせていることと、過去の歴史的事件を残酷ながら、冷静に描写することでナラティヴが平面化ではなく、立体化する含みがあるところがあるとも思うからという与件に繋がってもくるのだが、ただ、タイムレス、普遍的な題材を掘り下げている作品を作り続けているという気はしなくとも、村上春樹氏は自著で珍しく、日本のアーティストでも、スガシカオ氏を称賛していた。

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない (文春文庫)

意味がなければスイングはない (文春文庫)

における「ぬれた靴」への言及は双方への関心が薄くとも、興味があれば、アタッチメントしてほしい箇所だと思う。ただ、インディーズへ戻り、再びメジャーのフィールドに帰りながらも、頻繁なライヴ、配信を往来する彼にはやはり、この「黄金の月」が見えているのか、という想いをこの稿では、改めて世に託したくも想う。新曲で配信された「モノラルセカイ」も美しいが、反射鏡としてのコンテキストも含めて。

〈REAL SOUND〉というメディアで音楽ジャーナリストの柴那典氏がこういう記事を書いている。

【タイムリミットまで2年、スガ シカオはどこに向かうのか? 新曲『モノラルセカイ』から読み解く】
http://realsound.jp/2014/10/post-1633.html

柴那典氏が指摘するように、「50歳までに自身の集大成となるアルバムを完成させたい。」という文脈からすると、インディーズ経験、再びメジャーに戻り、ニコ生、ボカロ、リミックスとのシンク、多彩な展開、ライヴを繰り広げてきた彼からすると、ふと、極端に拓けたものではなく、プリンスの『Around The World In A Day』、岡村靖幸の(このたびの新曲「彼氏になって 優しくなって」も素晴らしい)、もしくは、彼も認めるゲスの極み乙女の持つ独自のファンクネス、さらには、ポスト・インターネットの波を受けた上で新たなセクシュアルなソウル・ミュージックを披瀝したアルカを経由したりするのだろうか、と想像は尽きない。

***

スガシカオ自身は配信ゆえに、「モノラルセカイ」の歌詞、クレジットをオフィシャル・ブログに書いている。

【歌詞カード&クレジット です】(2014.10.23)
http://ameblo.jp/shikao-blog/entry-11942822684.html

“モノラル”の“世界”という仮対象における、彼自身のこれまでどおりの認識論が軽やかにはじける曲ながら、そこでは、「世界」はきみと、ぼく以外の何かではなく、“きみ”が世界に含まれている中で、“ぼく”に対しての思慮を巡らせ、しかし、同時に、「Thank You」に近い価値観も含まれている。

昨今の「赤い実」辺りのセクシュアルなファンク・チューンというよりは、「アストライド/LIFE」に近くも、80年代的NW調のサウンドメイク、ライヴ向けという軽やかな粗さが奏功している。

スガシカオ自身にとって、この数年の音楽以外でも、活動におけるストラグルは多様な味方に支えられながらも、ニュースでなにかと先走る言葉含め、(仮想)敵に囲まれてしまうことを考えてしまうことも尽きなかったのだと察する。だからこそ、彼は“誤配”を省みず、ツイートもブログも、最近のゆるキャラにしても、そうだが、あえて荊の道を切り開き、やり直せる意味を唄ってきた。

―開き直らず、これまでの存分なキャリアを踏まえて。

***

 なお、筆者は、スガシカオに関して近年は目立った形では、以下の記事を書いているが、「モノラルセカイ」でより更新される何かがあった。

「Re:you/傷口」-COOKIE SCENE
http://cookiescene.jp/2012/06/reyou-self-released.php

スガシカオ「航空灯」によせて-Rays Of Gravity
http://d.hatena.ne.jp/satoru79/20140220/1392858045

 個人的に、まったく村上春樹氏もスガシカオ氏の表現そのものを否定する理由的な何かはない。だからこそ、靄がかかりがちな瀬にもう一度、月の耀きが届くようにとも思っている。「夜空に光る黄金の月などなくても」から始まってゆく何かが今こそ再接続されるのではないだろうか。そこから、スイングが始まれば、意味はあると思う。モノラルなセカイに色づけられる先を待っている。

誰もが誰かにとって 
特別な人でありたい 
そう願うにちがいない

(「モノラルセカイ」)

― 今の時世にこんな、あまりにディーセントな詩に伴い、あらためて暗雲に霞まない黄金の月が照応するかもしれない世界に背を向けて、それでも、輝くことを希ってやまない祈念的な何かの理由はなく、”プールの底”からでも見える光が聖夜を濁さない滲みであればということを願うことは悪くないと思う。