alone of hopeness

この前、アメリカで安楽死を選んだ女性のニュースがあった。いまだ議論は尽きないが、様々な状況下により、人間の「有たる、何か」は変わる。終わるときは突然、終わり、その「無」は自然と周囲に、周囲の日常、記憶に侵食してゆく。だから、在るか/無いかという二元論は不毛で前提条件ですらない。今年、自身が深甚に心身を追い詰められる状況になったとき、誰の言葉は勿論、音楽も映画も何もかも無意味にさえおぼえた。何らかの安定、保証がある中でこそ、自在に動けたり、考えたりできるわけで、“不自由であるほどに自由である”というのはイロニカルだが、人間の帰属意識とは一旦、「囚われ」てしまうと、厄介なものだとも思った。

***

セカンド・ライフに入った途端に急に、「自分に何もないことを知った」という人と時おり会うが、それまで会社のため、家族のために粉骨砕身して、リタイアしたらあれをやろう、これをやろうと思っていたものの、いざリタイアして最初の内は良かったが、徐々にウチに籠るようになったというケースが結構あり、そこで配偶者を先に亡くしたり、子供が独立、離れたり、というのが「重なる」と途端に自分とは、と我に返るのだという。「何か」を信じるという行為は自身の内部でのバランサーなようなもので、それは自分じゃない誰かには透視できない。信じすぎると、盲目になり、盲目的になってしまうと、そうじゃない価値観を排除したりしようとする。自分には「合わない」ものはまるで、この世には在り得ないかのように。

***

だから、戦争でも最初の契機は宗教上、民族上、色んな要素の差はあれども、正義同士の駆け引きだったりする。そこに倫理観念を持ち込むと、冒頭の人間の尊厳性(dignity)に関わるからとなるはずだが、「政治」が絡んでくると、一気になだれるようにホッブズのいうところの社会契約はなくなる。社会契約論は突き詰めると粗が出てくるが、社会契約の実効性が既に行なわれている世において社会契約の不可能性を問うというのはまた違ってくるとも個人的に思う。「国家(Nation)」の概念規定まで敷衍すると、リーチが大きくなるものの、仮定的な命題としてそれぞれは何か、どこかに属していることになるわけだが、絶対性はそこに介入しない筈で、相対的なものとして、また、社会的生物としての関係性のみが繋ぎとめることで生まれる現実がある。

そういうことを徒然と思う。