花絨毯の下に

承継者がいないのだろう、立派だった、果樹園、メロン農園が荒れ果てたままであって、でも、メロンを栽培し、育て、しっかり商流に乗せるのは簡単ではないことを以前に実業者の方に聞いて、Iターン、Uターンで農業を成立させるための導線には「人材」だけで事足りない。都市整備関係のコンサルタントの知己と会うと、都心部からのそういった願望は増えているが、仕事、しっかりビジネス・サイクルとして確立させるには、地方自治団体のみならず、沢山の知恵と、“既存商流”への尺度への再敷衍がいるのもあり、結果的に、「労働力は足りないが、求めるべき労働力はそうではない。」となり、商機は都市部により内在、累積化されてゆくと言う。地価との兼ね合いで、投資目的で買うマンション、そこの二次利用が極端化しているのも来年1月の相続税改正に絡んだものばかりではないということで、その表面と密接に関わった形で、新しいスペックには多くの利潤が巡る。「相続税改正で損する人、しない人」みたいな本や特集、または簡単な手引書が○○万部突破といった広告を見ると、複雑な気持ちになる。自分がその事象にあたかも、“含まれている”と錯覚させられるタームはいつからか、広告代理店だけが使う術ではなくなったのかもしれない。

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先日、京都に大型商業施設が開業したことのインタビューで主婦の方が「これまで近くのダイエージャスコに行っていたけど、品揃えが豊富なので、こちらも来ます。」と答えていた。大事なのは大型商業施設が出来ることで、商圏再編成が行なわれることも含めて、“こちらも”の“”の部分だと思う。品揃えが豊富でも、馴染んだ店を捨てることはなく、価格や品物、ホスピタリティを個々に判断して、棲み分けてゆくのだろうと思う。“あれもこれも”揃っていても、そんな、あれもこれも手に入れたい人たちばかりではなく、目的物以外に、僅かに気になったもので小さな経済は回る。「小さな経済」といっても、一人の、その背後に家族がある「家計」としての経済では、現在の原材料高騰と、円安、来るべき増税社会保障や生活への不安からすると、財布に入れているお金との鬩ぎ合いになる。また、健康、衛生面へのヘッジも為されてゆくとなると、「最低限の食材を揃えるだけでも、以前より厳しくなった。」という主婦の知己の声も聞き、また、彼女に「産地やそういったことについてはどう?」と問うたら、「もうとりあえず目先の生活を保ってゆくには、オーストラリア産、国産とあったら、肉だったらオーストラリア産を選ぶくらいしかない。」とも言われた。食べ盛りの子供たちにステーキや焼き肉は欠かせない理由をわかりながら、考えさせられた。そこそこで、多くは望まず、生きていけばそれでいい―はずなのに、どうもこの数年で構造自体が変わりつつあるのかもしれない。

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旅の本を読みながら、見果てぬ国に想いを馳せては計画を立てていたりすると、急に治安情勢が悪化したりで渡航が厳しくなったりする。先日の北京のマラソン風景を観ていたが、随分前に、PM2.5対策の分厚めのマスクを買って、それを付けて移動していたら、変な目で観られたが、今はそういったマスクを付けているランナーもいれば、日本でも居るのをよく見受けるようになった。

蓄積されてきた何かが一気に払拭されることはなく”、蓄積された何かにより、更に景色が煙る可能性は増える。

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今年の話かというほど、目まぐるしく多くの出来事があったが、沖縄の基地問題を巡った選挙、STAP細胞ソチオリンピックビットコイン、消費増税、細かな法改正、天災、異常気象、また、都度の残酷な事件まで“その後”をフォローする余裕がないまま、自身の周りのガードを固めるしかない無力感もあるようで、息詰まりもする。

同時に、静かに穏やかに、花絨毯のように綺麗ならばいいが、元あった道が忘れ去られてしまうと、遣る瀬無くもなる。