喪失の途中の向こう、

USが作ったこの数年で起きた大きな世界中の大きな事件を纏めたドキュメンタリーを観ていた。震災、紛争、無慈悲な現実に最低限のナレーションがつき、想い出す、とかではない、そのままに歳月は流れて、そのままに在るという証左だけを残した。スマートフォンの液晶越しに「あなたは、今はどこにいますか。」と問いかけるシーンに、背筋がゾッとした。ロスタイムを誤魔化すように、ここ一年ほどを生きていた自分からすると、まだ「ここ」が「どこ」なのか、わからないときがある。祖父、愛犬、友人の喪失が改めて意識の中で追いかけてくることがあって、いつもそこに、居たものが居なくなる―永劫、なにもかも在り続けることはできなくても、誰しもにとって「喪失の重み」は誰かには想像もできない。陰惨なニュースが起これば、裏側を詮索する。何か目立つ行為をすれば、すぐに検索する。でも、本質を掴んでいるのはその人なだけで、祀り上げた仮称体はゴシップや誹謗中傷、擁護、外野に攪拌されて、あっという間に次の大きな仮称体に興味を運ぶ。そして、夜が来て、朝が来て、また、季節が巡って、いつかの「喪失」は消えずに残る。

機会があって、ある回転寿司屋の具材の生産場所のリストを観ていたら、本当に世界中の国々が並んでいて、微細に渡り、細かいところまで記載されていた。“MADE IN〜“に拘っていなくても、数年前のあの頃のピリピリしたスーパーや生鮮食品店での「この産地は正しいんですか」と確認していた子連れの主婦の方たちの姿を憶えている身としたら、復興施策とは別に、人間は産地の「喪失」さえ受け入れてしまうのかと想いもするが、そんな簡単なものではないのだろう。自国の工場で作られた紙おむつ、生理用品、胃腸薬などを買い占めてゆく隣国の人たちのことはもう特筆すべき風景ではなくなり、500円で食べられるランチの隣では、3,000円のランチの行列が平然と成立しているようになり、立派に建設が進められている建物は富裕層向けマンションで、祖父母の財布と孫の笑顔に挟まれて、消費税や改変されてゆく制度に青息吐息で働き、学ぶ人が日々の情報に追われている。

年金の相談のために、FPの方と話をしたら、今の30代の勤労世代が「納める割合が比較的高くて、ターンは厳しいかもしれない。」とはっきり言われて、それは把握していても、国民年金、厚生年金、共済年金、色んな年金の「制度」の脆さが露呈してきている。しかし、納めないと、何も動かない。数か月の未納期間のため、難渋な状況に陥っている老齢者の方の例には枚挙にいとまがない。国、政府は誰を守ってくれるのだろうか。そんな問いを投げかけるには、一人一人は無力なのだろうか。公園には無邪気に遊ぶ子供たち、グラウンドではサッカー大会が繰り広げられていて、空が綺麗で、紫陽花は美しく光を弾いている風景を見ている分には平和で、何一つ問題ない。

何一つ問題ない
考え方次第でそんなに世の中捨てたものじゃない。

よくそういった文言が躍る。

ただ、「喪失の途中」を生き続けてゆく覚悟が問われ、それを引き連れてゆくべき潰れない体力が要求される瀬は極まってゆくのだろう。悲観でも、開き直りでもなく。

現代経済学の潮流2014

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