チネ・チッタで仮眠を、

ゲシュタルトという心理学用語のみならず、集団になると、非・論理的になってしまう傾向がある。

多数決の理(ことわり)だけではなく、寧ろ、数の論理だけで片付けられない、自分の“ソト”にある全体主義が非・論理的な内在侵食をしてくることが増えた。世界の御祭りたるW杯サッカーに、自分はそこまで精緻なデータや回路を持ち合わせていなかった。ただ、そういった行事を通じて、国旗や国、民族の間にサッカーボールが行き交うのは素晴らしいと思う。

思っていても、そうではない“ソト”から啓蒙、説明をうける。有難く、畏れ多い。なんでも、教わるということは、その人が知識・経験・時間を自分に割いているというわけで、すこしのアルコールが入りながら、今の日本チームの選手の来し方を丁寧に教えてくれる若い方の熱量は有難い。同時に、その場でLINEで試合の状況をチェックしている。二次元と三次元が交差するみたく、僕自身は「知る」こと、「識ること」の二分線を考える。

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少し時間を縫い、新しい書籍やレコードをチェックしにいけば、「取り寄せますか」という言葉が増えた。なぜかつい、「いや、いいです。」と言ってしまう。取り寄せる≒確実に手に入る互酬性という確実さが何か、自分は忌避しているところがあって、非確然的に、それと出会いたい、そんな潜在欲求があって、要は、面倒なことを積極的に求めている難渋さ、機会費用が自身にはある。ストレートにその何かにリーチできても、その何かは複製技術の藝術的なアウラの葉脈を辿れば、アウラはどこにいくのか思う。今こそ、遠回りして普段、停まらない駅の、古くからある食堂に行ってみたくなるというのも人間の当たり前の欲求なのではないだろうか。

日本という狭い国だけでも、天候でまったく別のものを感じる。同じ言語を話していても、まったく別の場所を感じる。それでも、コルテオができていたら、先に「象徴」があるのだろうとは思う。象徴的“記号”とすると、記号は個々の感性に回収されてしまうから、万年筆のインクポットに筆先をつけすぎたときのように滲む。滲んだら、過重集中された強い意見や、もっともな正論が幅をきかすのだろうか。

そんなときには、自分は、チネ・チッタで仮眠していたい。