スガシカオ「LIFE」という名詞

1)

再確認ほどの大層なものではないが、“life”は名詞であり、「人生」もしくは「生命」を指す。比して、“live”は動詞。「生きる」といった意味を含む。名詞はピン留めされる。だから、進行形の唄を進んできたスガシカオがこのたび二度目のメジャーデビューとなる曲のタイトルに「LIFE」と置いたのは興味深かった。このシングルは、他の曲群と併せて、語るべきだと思うが、この曲に関しては相当にいびつなバランスで投企されている印象を個人的に受ける。

映画『オー!ファーザー!』の主題歌であり、彼の作詞・作曲、そして、小林武史のプロデュースとなれば、汎的に拓けた「夜空ノムコウ」、「Progress」的な普遍性を求める、期待していた人もいるかもしれないが、ピアノのイントロから字余り気味な歌詞、エレクトロニクス、途中のストリングスの異様な絡みなどの奇妙な音空間とダイナミクスの中で綴られるのは以下のようなこと。

『オー!ファーザー!』予告編

スガシカオ「LIFE」歌詞―うたネット
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=163369

“友達が ぼくに投げ捨てていったコトバ
別れの時 彼女が伝えたかった想い
もういないあいつが みてた夢の続き”

2)

彼の言葉には時おり“遺留分”が残る。

つまりは、“もうここにはない、いつかの誰かの言葉と想い”。その言葉を持った誰かとこれから接点があるかどうかは不可知であり、だからこそ、衒いのない「夢」という大文字を使っても、その夢は茫漠とせずに意味を含む。この「LIFE」ではスガシカオ自身にしては、ヴィトゲンシュタイン的な解釈が散見される。今現在に区切りを入れること、でも、区切りなんて入る可能性はないこと、自己内に閉じず、他者に向けて語ろうとする文法の再帰、帰一のコンテキスト、そこに小林武史のいささかマッドなアレンジメントが着地点を暈す。

ヴィトゲンシュタインは云う。

「成立している事態の全体が世界である」

3)

そうならば、この「LIFE」はサヨナラ/出会い、明日/今日、マチガイ/後悔、悲しみ/笑顔といった二項対立図式を置き、「ひとつだって無駄な出会いなんてないに決まってる」と虚実入り混じる事象を真摯に受け止めて、歩こうとする姿勢を取る。それは、「Progress」の“あと一歩だけ、前へ、進もう”とはまた違う。

一歩では足りない未来的な導路がある。それでも、彼は2012年にメジャーを離れ、配信シングルとあまたのライヴ、イヴェント参加を続けてゆく中で、これまでと違った鋭度と独りの歩みを強化させていった。TwitterFacebookニコニコ動画、メール・マガジンなどSNSを駆使しながら、自身からの衒いのない言葉をそれぞれに載せ、ライヴでは密にパフォーマンスをおこない、ひたすらドライヴしていった。「アイタイ」というシングルもあったものの、先ごろの『Acoustic Soul』EPでは、一般のブログや感想までもフックし、弊ブログの「航空灯」の記事も恐縮なことに彼のTwitterやFBのひとつに取り上げられた。

スガシカオ『航空灯によせて』
http://d.hatena.ne.jp/satoru79/20140220/1392858045

4)

さて、この「LIFE」だけで判断できるものは少ない、しかし、提示しようとしている何かは十二分にわかる。一旦、メジャーから離れた「Re:you」のときからほとんど変わらない贖罪的ななにか、ともっとカオティックな自我の混乱ともいえ、彼にしては言い換えが可能な言語(体系)を積極的に用いているのは、意図的だとも思わないこともない。

スガシカオという存在の統合を鑑みるには、これまでの内部文法のトートロジーをあえて視索し、小林武史という外部効果を取り入れることで、異化している作用を掘り下げるべきかもしれない。

5分ほどの中で、不思議な展開や、音風景の位相としての奇妙さをいくつも感じるのも納得できるのは、これは「LIFE」といった名詞の大きさではなく、“life”という小文字に対しての意識の差分があるからではないだろうか。語りつくせない領域にあえてアタッチメントしないアティチュードも今ならば、正誤表はないと思う。

”いま この瞬間
歩くよ そう信じて”

どんな峻厳な状況でも、”歩む”しかない道もある。
それはあくまで動詞でも、名詞としての「生活(LIFE)」があってこそ、成り立つ。