工藤鴎芽『キネマ』によせて― 切断可能のロマンティシズム

1)

選べない娯楽、拮抗する現実の不安


一般社団法人日本映画製作者連盟の発表による2013年(平成25年)の全国映画概況では、入場人員は前年比100.5%で1億6,000万人近くながら、興行収入は99.5%で、1,974億円で、公開本数は1,117本となっている。 存外、厳しくないと思った人たちは興行収入10億円以上の映画を観れば、なんとなく納得できるかもしれない。

風立ちぬ』(120億円)、『ONE PIECE』(68億7千万円)、『ドラえもん』(39億8千万円)とアニメ・コンテンツが並ぶのとともに、いわゆる、人気ドラマの映画化ものが上位に連ねられて、そこには映画という娯楽は基本、観衆が選ぶもので日常からかけ離れた映画館という暗がりで暫しの時間、その内容に酔う、そういうものではなくなってきつつあるともいえるが、“単一的に間違いないものに重複してお金を払う”巨大化したプログラムだけが勝ってしまっているというのはシネコンが隆盛して、その現場でデートなり買い物の途中ででも、「何か観よう。」と思ったときに、「とりあえず」が結局は無難を選んでしまうという消費者の深層心理を反映しているともいえる。下らない、外れた映画を観ることもひとつの体験で、そういった寄り道を繰り返すことで、映画越しに想像力が鍛えられる何かが出てくるはずなのだが、それができにくくなっているのは現在の日本の状況の一端を表していると思う。

2)

繰り返される、文化的

2011年3月11日の東日本大震災から3年の歳月が経ち、そこに晒されたリアリティは容赦ないまでの重いヒポコンデリアと、遅々として進まない復興の状況だった。ドキュメンタリーでは「地獄のような日々だった。」と老齢の方が語り、不眠症アルコール依存症、多くの辛苦の状況がじわじわ多くの人間の内面を蝕んできているのも地表化してきた。この時世に、娯楽、いや、日本国憲法第25条にあるような「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という文言の意味はどう反響するのだろうか。

想像力の忍耐を試す作品として 工藤鴎芽というアーティストにとっては、初の全国流通アルバムとなった2013年のサード・フル・アルバム『Blur & Fudge』で、より鋭角的にオルタナティヴな方向(と咆哮)を潜めた。それはシングルや時おりの作品で見せる優しくたおやかな部分ではなく、緊急警報時のサイレンみたく、胸を抉るところもあり、同時に、ノイズに塗れた中に浮かび上がってくるメロディーや歌詩はこれまでにない語彙を含み、彼女なりに混沌とした瀬に於いて、どうおかしくならずに対峙できるか、そんなところも伺えた。そこからのニュー・マテリアルとなるこの『キネマ』は7曲入りのミニ・アルバムであり、いい意味で、軽やかな“デ・ジャヴ”が通底する作品になった。それは、この数年で亡くなってしまった映画監督やサウンドトラックのコンポーザーを思わせるように、また、テクノ・クラシックたる“ポップ・コーン”を映画館で弾けさせる内容になっているからだ。

3)

なぜに、”キネマ”なのか

しかし、原点回帰など平易な言葉ではなく、キャリアを重ねる上で、螺旋状に自身の核心にある音楽やこれまで視てきた現実を音像化しようとした結果として、こうなった気もする。そういった意味では、過去のミニ・アルバム『Mondo』、『At The Bus Stop』からの“地続き”、連作と捉えるには差異があり、聴き手には想像力とほんの僅かの忍耐が要る。現在に足りないのは数分でも、数十分ほどの間でもいい、対象物へ想像力を試し、その時間をどう堪えるか、ということはあると思う。

映画でも、最初は冗長に想えたものでも、妙に後に残っている箇所があったりする。そして、ついもう一度、観たくなる、そんな“繰り返し”は音楽でもよく起こる。

最初に、この『キネマ』を聴いたときは、座りの悪さと不安定な不気味さをおぼえる人もいるかもしれない。雨が降り続ける中に、か細く途切れそうに聴こえる彼女の声、柔らかな電子音の連なりがやがて、アリア的になってゆく展開、ストリングスの響きとジャンクなギターのノイズが重なり、サイケデリックな彼岸を見せるもの、ダブステップとオリエンタルなエッセンスを組み合わせ、ベースメント・ミュージックとしての切迫度を高めたもの、チップ・ハウスなど、幅広くも、これまでの彼女に見られなかったが、根脈に流れていた熱がこれまでよりもオブセッシヴに響いてくる。 ボーカルの入ったトラックにしても、ベースはザラッとした質感を大切に、シンプルな電子音の加工から馨りたつのはデスクトップを目指すわけではなく、どれも調和を拒み、サンドペーパーで粗く整える、そんな印象を得る。 今、『キネマ』を負う意味 曲そのものに少し触れるに、「夕景と憧憬」には、そのタイトルどおり、流麗な始まりを持ちながら、短い時間の間にストリングス、パーカッションと音の要素がどんどん増えていき、最後はプログラムが終わったTVの砂嵐みたくプツッと終わる。「Voyager」は過去のどんなアルバムに入っていても違和感のない「うたもの」だが、ギャラクシー500のようなサイケデリア、エコーの中に消える声とギターのカッティングと「さようなら」というリフレインが残る切ない曲。「劇的ではない毎日」はフリージャズやエイフェックス・ツインスクエアプッシャーのようなカオティックなチップ・ハウス。そう考えると、曲名と曲の内部位相の反転も思わせる。その曲名が曲内容を規定しているようで、曲内容が逆に曲名を再定義せしめるような―それは“シネマ”ではなく、“キネマ”と今作を名づけた彼女の拘りなのかもしれない。

4)

キネマとはギリシャ語の“kinematos”という「動き」に由来するが、いい言葉ではあまりない。

それは、ロックンロール、映画が抱えてきた歴史と、拮抗するありのままの現実を考えれば早いと思う。それでも、工藤鴎芽は、こんな時代に『キネマ』を掲げ、7篇の音楽を託そうとする。その託す場所は、ベッドルームからフロアーか、フロアーから不安と現状を護るしかない人たちの心か涙か、それ以外の感情の余地なのか。 『キネマ』は、仮想化された多次元的なフロアー(/階層)も夢想しながら、その現場をも揺さぶるだろう不思議に透き通った作品になった。

キネマ

キネマ

【Kamome Kudo HP】
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