田舎の生活

”田舎の生活”に焦がれる人は多く、そういったものを推進する動きもある。Uターンのみならず、Iターンも目立ってきた。都会出身者の定住を求めながら、ふるさと納税も促す。反面、限界集落の問題、極端な少子高齢化により、地方自治体によっては財政状況は厳しくもなり、自治体による明らかな公共サービスの差異もうまれてきたり、住みやすさの度合も如実に変わってきている。産業を誘致し、場所を提供し、若者を呼び寄せる。「町興し」という言葉に収斂させるには拙速になってしまう。加えて、こういう記事のような示唆もある。

【増加がとまらない!?日本の空き家事情について】
http://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00015/

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余談かもしれないが、ジョン・ロールズは『正義論』の第二原理でこう記していた。

Social and economic inequalities are to satisfy two conditions: first, they are to be attached to positions and offices open to all under conditions of fair equality of opportunity; and second, they are to be to the greatest benefit of the least advantaged members of society.

機会均等原理では、果たして何が除外されるのか。誰もに同じ機会を付さなければならないという議論は毎度、起こる。

時おり、ニュースでは寒村で廃校になりかけた学校に久しぶりの新入生が、みたいな映像が映る。背景にはその町でずっと暮らしてきた、生活の根をおろしてきた老齢者たちの姿が映る。その新入生のこれからに向けての「機会」はどうなのか、は個人的にわからない。

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一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして
頂の白に思いはせる すべり落ちていく心のしずく
根野菜の泥を洗う君と 縁側に遊ぶ僕らの子供と
うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上

(「田舎の生活」、スピッツ

故郷を喪ってしまった人たちの寄る辺はどこにあるのかもここ最近、考える。学校が季節休みとなれば、どちらかの実家に帰る子たち、すこしだけ賑やかになる田舎もあれば、帰る場所のない子も諸事情でもちろん、ある。自分も小さい頃は、正月くらいは父方の祖母のマンションに行ったりしたが、後で事情を知るまでもなく、「愉しい体験」ではなかった。それでも、近くのお寺や露店を巡ったり、そういうことは残っている。

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誰もが老い、町も老いる。既存の家族の形態も老朽化し、無縁化から漂流化する社会の中で、「名前のない」暗夜行路もある。トンネルや道が崩落してから、ようやく始まる再整備事業のように、直接に被害が生まれて喧伝される悼みのように、何かが具体的に起こらないと、動かない。だから、自己責任、自己防衛を、と言われる。小学生の子たちの首には携帯電話がつるされていたり、繁華街の監視カメラには明瞭に往来する人たちが映される。なおかつ、田舎の生活では地縁・知縁で管理されながらも、隣家でさえノータッチのままで「共存」する。

「根野菜の泥を洗う君と 縁側で遊ぶ僕らの子供」

には、幾つかの仮定条件と、クリアーにならなければならない峻厳な複数の事情が前景する。

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先ごろの春休みはこの数年、恒例だった甥姪との長編映画ドラえもん』を行かなかった。甥が大きくなり、スケジュールがタイトだったり、自分自身の変化もあり、かろうじて保たれていた平衡の“あいだ”を縫えなかったのもある。この数年は、身近なことでも、寝てばかりいたが、存在感のあった愛犬も天寿を全うしたという年齢でなくなり、認知症はあったが、柔らかく瞼をおろした祖父など見送る「べき」ことがなにかとあり、喪失の心の処理をしながら、田舎も日々刻刻老いてゆき、その瞬間を待っているようで、当たり前に既存構成の脆さを想ってばかりだった。

また、別因として、新しい場所でのリズムもできてくると、必然とこれまでにはわからなかった綻びも見えてくる。綻びではなく、やはり、「閥」で、線引きされた領域内の自分でやることは膨大なようで、限定的ながら、まだ周囲の配慮は恵まれている。

田舎に生活は確かにある。それでも、「生活」だけあってもままならない状態が猶予だけされているのもどうなのか。