作法としての書替作業

「昇りなされ、或いは下りなされ、同じことじゃよ」
ゲーテファウスト」より)

今の世の中でアンビヴァレント(両義的)であることは本当に難しい。アンビヴァレントの意図性は、グラム何円で論文を売る世界のような旧弊墨守な価値観と再接近する可能性があるからで、その論文の山に集るのは閉架書庫の番人なのかもしれず、この頃、ベルトランの「生産量を制限して、価格を上げ利益を増やすよりも、価格を下げて市場シェアを増やす道を辿ると、競争市場では価格は限界費用まで落ちる」というのはどうなのか、などあれこれ考えている。要は、市場の再定義を試みるために持ち起こすべきリ・デザインの考え。

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結局はネットの急速な開放で、言論の自由はより確約されたというのは逆で、これだけ幅広く整備化されたことで、ビッグ・データ、クラウド下、そこまで詳しくなき人たちでも、有名人の逝去や失態では個々が異口同音に何かを性急に呟き、共犯性を要求せしめて、制限された中で華めくTLは感想か、体制側から仕掛けられたトラップか、なんてことはもう野暮で、OUTPUTが増え過ぎた訳では決してなく、INPUTの規定量がおかしくなってきているのが現代の強み/脆弱性でもあるのだと思う。

その浸透圧のバランスも鑑みずに、表面張力を頼って水を注いでも、コップにはもはや罅が入っていたりする。コップは「キャパシティ」じゃなく、「感性」と再翻訳してみる。(思えば、今はGoogleでも簡単に多言語を自動翻訳してくれて、文意は読み取れるが、あの滅茶苦茶な文字の配列はバグというよりも、面白い。)となると、ひと昔前みたく、ヴァルネラブルでスマートな感性所有者が「ネット・アディクト」し易い訳ではなく、リアリティ乖離し易い気配は倒錯してくる。

何かにアディクトすることそのもの、自身の別の欠落を浮かび上がらせる。

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電車で皆が俯いて、スマートフォンを操作する風景を「不気味だと思わなくなった」ということを言えば、「そんなことはないでしょう」と返される。「あの日を忘れないでいよう」、「忘れられる訳ないよ。」、兎角、二元論の大文字の対立図式が巡ってはその遣り取りをメタ認知して、こういう風な視座から再解釈してみよう、という提案はなんとなく、というよりも、面倒がられる。

ドレス・コードならぬ、礼節としての「規定言語コード」が堅固にあって、何か言う際には、背景に「何かを言うのだろうな、と待備している」という錯覚的な見えない目を自分の中に内在化させた上で、結論へ向けて段階的に発信するのがフラットだと思っていたら、そういった礼節がもう飛ばされているようで、どうにも、疲れた。眠たい。何かを食べた。の類の無難なラングが形式化するのも道理なのかもしれない。

「否定」から始まる何か、「賛美」ありきの失語の言語位相をスライドさせて、もう少しだけ、「複眼」を持ってみるのはどうなのか、とも思うが、その複眼越しに見える景色は表層のニュースや現実じゃない、もっと深いベースでの「どうにもならなさ」も捉えてしまう。個人の普遍性に興味が無くなった数多の層が、“普遍的でしかない集積体”という個の集合体をサンプリングしようとしていて、それは、本当にクルーエルなシステム所作で、ミームで拓けた制度の差分だけ、帰着点だけは鮮やかに“縄抜け”を出来ればいいのだが、それさえ許せられない、時限爆弾の導線のような集態要請も存前している。

だから、どんどん既存の教科書を書き直す必然は権力装置側だけの特権ではないのだろうとも思う。

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

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